さて、大山道は高田交差点を過ぎ、高速道路をくぐり、相模線の踏み切を渡り、大曲四丁目で小出川を越える。大曲二丁目、一丁目と歩くと、道は中原街道に交差する。ここはもう寒川神社の門前町一之宮である。
寒川神社は相模の国一之宮。延喜式、神名帳にも載る大社で、創建は神亀四年(727)、天平神護元年とも言われている。祭神は寒川比古命、比女命で寒川大明神と称している。
源頼朝、北条義時、武田信玄、徳川家代々の篤い信仰を受けている古社である。
この中原街道を分ける角に景観寺があり、この寺には室町時代に作られた十一面観世音菩薩立像があり、(町文化財)また享保十二年(1727)建立の宝篋印塔もある。
大山道に面したここ一之宮一帯は、源頼朝御家人の一人である梶原景時の館跡となっている(国指定史跡)。館跡には天満宮、薬師堂があり、周囲には堀切、土塁跡も残っている。
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梶原景時屋敷址 |
新編相模國風土記稿巻之六十二、高座郡巻之四によれば「梶原景時城跡、村の西方大山道の傍らにあり、陸田二段八畝余今屋敷内と唱う、その余は字して城の下と唱う、正治二年(1200)正月景時が築城せし事、東鑑(鎌倉幕府の歴史書)に見えたり・・略・・。
尚、梶原氏の鎌倉での本拠地は梶原で今のモノレールの湘南深沢駅近くにあった。
梶原景時は桓武平氏の流れを汲む鎌倉党の一族とされ、同族には大庭氏、俣野氏、長尾氏らがいる。治承四年(1180)源頼朝が挙兵し、石橋山の合戦で頼朝が破れたとき、大庭景親率いる平家方の一員として参陣していた景時は頼朝を助ける。
鎌倉に幕府が開かれると、土井実平の推挙により家臣となる。源平の合戦で多くの戦功を上げ幕府の要職に就いた。
文治五年(1189)には衣川で討たれた義経の首実験を腰越で行っている。頼朝の死後謀反の讒言により職を解かれた。また重臣達からも嫌われ、鎌倉を捨て京に上る途中駿河の狐ヶ崎(清水)で討たれてしまう。
館跡の裏手には、家の子、郎党達ゆかりの五輪塔がひっそりと並んでいる。
この街道筋は中世武将達の夢の跡が多い。先の大山道入り口四谷の北には大庭氏の拠点大庭城(現大庭城跡公園)があり、高田のとなり円蔵には懐島氏(フトコロジマ)の館があった。大庭氏は平安末期からこの辺りに住み着いた豪族の一人で、ここ大庭を所領し一帯を開発した。大庭景正は所領の一部を伊勢神宮に寄進し、この土地が後の大庭御厨(ミクリヤ)となった。大庭城は引地川のほとり高台に位置し縄文、弥生時代の遺跡があることからして古くから開けていたに違いない。
大庭城址への行き方は、藤沢駅から神奈川中央交通バス湘南台行きまたは湘南ライフタウン行きに乗車、舟地蔵で下車しバス停前のクリーニング店脇の路地を入ってすぐ。また管理棟のある正面入り口へは道なりに歩いて10分ほどである。土塁、空堀等遺構が良く残されている。
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大庭城址 |
大庭城址 空堀 |
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大庭神社 |
城は小田原北条氏の時代になると、大船の玉縄城と同様に東国への守りの要としてそのまま維持されたが、天正十五年(1518)豊臣秀吉の小田原征伐で負け、廃城となってしまう。
また引地川を挟んで対岸の高台に郷社大庭神社がある。
延喜式内郷社相模13社の一つで、大庭景親が勧請とあるからこれも古い社だろう。社殿は大正の震災で倒壊、その後の建物であるから新しい。
この社にも梵鐘がある。碑文によれば“享保二年(1717)鋳造の鐘は太平洋戦争で供出した。昭和三十年九月再建する”と記述されている。
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