連載
「田村通り大山道」を歩く(1)
池 内 淑 皓

 大庭景親の先祖鎌倉権五郎景正(政)は八幡太郎義家の軍に加わり、奥州平定の役で活躍している。景親は頼朝の挙兵をいち早く平家に報告し、総大将となって石橋山の合戦で頼朝軍を敗走させた。景義(能)は景親の兄で懐島氏と名乗り、頼朝挙兵の時から源氏側に参陣し、鎌倉に幕府が開かれると御家人の一人として活躍している。景義はこの先の円蔵に館を構えていた。景親は平家に味方したため頼朝に首を刎ねられてしまう。
懐嶋氏屋敷址
 懐島氏の拠点のあたり今は何も残っていないが、円蔵明神(現神明神宮)に行くとそれらしい碑と遺構が少し残っている。明神の裏手には大庭景義の立像と供に懐島氏館址の碑が建立されている。
懐島郷は和名抄には大島と記述されている。東鑑では建久元年(1190)十月の項に懐島として名が見える。昔はこのあたり西側一帯は沼地で、明神のあたりが高台となっていたので懐島と呼ばれた。旧大庭庄の一部であったため大庭の名を外し円蔵とした。
 神明神宮境内の碑文によると800年前大庭景義が大庭からこの地に移り、承平年間(1171−1174)懐島平権之守景義と名乗り、屋敷の守り神として明神を祀った。

その後二階堂氏が尊んできたが両氏族共に滅んでしまい村の鎮守様となった。景義は文治五年六月(1189)頼朝が奥州征伐で、朝廷の許可を得る為に思案していると「あなたの部下を懲らしめるのに天皇の許可は要りません。直ちに進発なさるが良い」と具申して頼朝を歓喜させたと言う。
頼朝軍は勇んで奥州に兵を向けて藤原泰衡を討ち、奥州の藤原文化は滅びるのである。
 円蔵明神への行き方は先の相模線の踏み切りを渡ると変電所前の交差点に出る。この県道45号線を左折して南下、700m程歩くと円蔵のバス停前に出るから、ここの路地を左手に入って100mの所にある。このあたりの地名は昔から御屋敷と呼ばれている。
 さて大山道は県道46号線を横切り西へ道をたどる。日東化工工場前を通り、急なカーブを曲がると目久尻川手前に「大山街道一之宮不動堂」(町文化財)がある。不動堂の傍らには天明六年(1786)九月江戸浅草黒船町大黒屋伝四郎らが寄進した道しるべもある。「右大山道 左江戸道」と刻まれているが、位置的には道の反対側に建立されていたはずである。
 一之宮不動堂
 
 目久尻川を渡り、相模川の土手沿いに700m程歩くと新装なった神川橋を渡る。橋下の堰は相模川で最も下流に位置する水道の取水堰で、この水は戸塚の小雀浄水場で浄化した後、戸塚、泉区方面の家庭に配水される。神川橋の名の由来は、田村と(昔は神田村に属していた)対岸の寒川の文字を組み合わせて神川と名付けられた。
 江戸時代このあたりは素晴らしい景色であったと言う。新編相模國風土記稿では“渡船場相模川にあり、大山道の係る所なり、当村(田村)及び高座郡一之宮、田端三村の持ち、船四艘を置き往来に便す。渡頭より雨降(大山)、二子(箱根)、富岳(富士)を眺望し、最佳景なり”と記されている。
 神川橋を渡った左手の土手際に昭和四十八年三月平塚市観光協会で建てた「田村の渡し」碑と説明板がある。これを読んでみると、“田村の地は古くから坂上田村麻呂に由来の地と伝え、箱根路に続く陸奥への海道(街道)に沿った所に相模川の渡し場があった。鎌倉時代には、三浦平六義村の館があり、鎌倉武士がしばしば往来した事は史書に明らかである”
と記述されている。
田村の渡し説明板 神川橋より大山を望む

江戸時代には関東の霊域大山石尊社への参詣道として大いに繁盛した。 
橋の袂右側には田村の鎮守八坂神社がある。境内の隅にはこのあたり一帯にあった庚申塔、道祖神、道標などが集められている。道標の一つには寛政五年(1793)に建てられた「左大山道 右江乃□満みち、いいやまみち」と読めるものもあるが、これらの道標がいつ、どこから移されたのか既に分からなくなっている。