連載

― 箱根の山は天下の険・・・ ―
黒江 輝雄
  今までに何回となく箱根を訪れたことがある私ですが、KWA「歩きたくなる道500ウオーク 箱根旧街道」に初めて参加して、今まで知らなかった
箱根の歴史的側面を垣間見た思いがしました。
その時の感想を以下に記してみます。
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 正月恒例の、大学駅伝スタート地点となっている箱根芦ノ湖畔から、この例会は出発しました。
箱根関所跡の裏手から、杉並木のつづく箱根旧街道に入りました。明るい日差しの表街道から急に「昼猶闇き杉の並木」道です。
狭い山道の両側に生い茂った杉の巨木群には行く手を圧倒される感じでした。
「羊腸の小径は苔滑か」で、まさに「箱根の山は天下の険・・・」と歌われている滝廉太郎の「箱根八里」の歌詞そのものです。
慣れない山道を歩いて、そろそろ一息入れようかと思っていると「甘酒茶屋」がありました。ところが皆さん方が休むことなくどんどん先へ行くので、私も茶屋を横目に見ながら歩きました。
 出発前に役員の方から、石畳の石は凹凸がはげしく苔で滑りやすく歩きづらいので、十分注意するようにとの話がありました。まさにその通りでした。ほとんどが下り道でしたが、足元が危険で120パーセントの注意が必要でした。皆さん難渋していました。
石畳の脇の案内板には、この道は将軍家にお嫁入りした皇女和宮もお興し入れのため通った道だったとの説明書がありました。
参勤交代では西国大名達の大行列がこの石畳道を往復したのでしょう。当時の苦労がどんなものだったか想像すらできません。

 旧街道は、新道を串刺しするように直線的に走っています。つまり、新道は旧街道を回り込むようにゆっくりとカーブして舗装された
自動車道路です。その新道を何度も横切りながら急な坂道の旧道を下って行きました。箱根観音や早雲寺・紹太寺などを過ぎ、箱根登山鉄道の線路が見え隠れするようになると、やっと入生田・風祭などの町並みに出ました。
 ゴールの小田原城銅門に到着したのは午後2時頃でした。出発地からゴールまでは長い長いスロープ状の坂を下ってきたような有様でした。もし反対に、ゴールから出発地を目指す上りコースだったら、2倍以上の時間がかかったと思います。
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 箱根旧街道を往来していた旅人達は、山下りにしても山登りにしても、一回のゴールできっと磨り減った草鞋を履き替えたことでしょう。
安藤広重の東海道五十三次の浮世絵や東海道中膝栗毛に登場する弥次さん喜多さんなどの絵を見るたびに、いつも不思議に思うことがあります。それは、長旅をつづけている旅人のいでたちがいたって、軽装なことです。
路銀は腹巻の中にしっかりと納められていたのかもしれませんが、手にする荷物といったら至って手軽なものばかりです。これでよく長旅ができるものだと感心させられます。その謎を是非知りたいと思っています。まさか旅の途中で「雲助」に出会い身ぐるみ剥がされることを警戒した訳ではないでしょう。そう云えば、「雲助」とは身元もしっかりした立派な鑑札を持った荷物運搬人のことだとの案内板も見かけました。 

 道中とてもきつかったけれど、いろいろと昔を偲ばせてくれた楽しい
「道行き」でした。