連載

― 数のかぞえ方(数詞)について ― 
黒江 輝雄
 歩き方とは全く関係のない話題ですが・・・・

 地球温暖化や最近の異常気象などとともに、社会的流行や風潮の急激な変化についていけない世代がどんどんと増えています。
若者達の会話やケイタイ電話で使われている絵文字入りの日本語(ギャル文字とかネット語というのだそうですネ)などは私には全然わかりません。
第一、ケイタイを持っていませんから。何か時代に取り残されているような感じです。
その反発でしょうか、どうしても、「昔はこうだった、ああだった」という愚痴めいた言葉がつい出てきます。

 昔は、確か学校で「数詞」について教えてもらったように記憶していますが、現在はどうなのでしょうか。
 鶏やウサギは一羽、二羽、魚は一尾、二尾、俵は一俵、二俵、神社の鳥居も一俵、二俵(もし間違っていたらごめんなさい。)といった具合です。
先日も、若い人の会話が聞こえてきました。内容はわかりませんが、「友達5人で○○しよう」というべきところを「友達5個で○○しよう」といってました。
はじめは一瞬何のことかと耳を疑いましたが、すぐにこれは数詞の乱れが原因だとわかりました。
最近では、「煙草1本ちょうだい」というべきところを「煙草1個ちょうだい」と平気でいってます。

 交通手段としては、馬と駕篭それに足で歩くことしかなかった時代には、庶民は専ら自分の足を最大限に利用していました。どこへ出かけるにしても二本足がたよりでした。

 ものの喩えに「五十歩、百歩」という言葉があります。これはご存知のように「AとBは殆ど同じだ、たいして差はない」というような意味合いの言葉です。すべてが、まず歩くことから出発していた、昔の人たちの生活体験から自然に生まれてきた言葉でしょう。

「隣り村の○○門左衛門さんのところに行くのに、大体1万歩かかるだろうから9900歩と9950歩とでは大した差はない、同じようなものだ。」といったような感覚から生まれてきた言葉だと思います。
 
 ところが今日のような激しい競争社会に生きている現代人にとっては、他人よりも一歩でも二歩でも先を行くことが求められるような場面が多々あります。
「五十歩、百歩」などというのんきな言葉は、もはや死語になってしまったといえるでしょう。
唯一現在でも生きて使われているのは、ウオーキングの例会だけではないでしょうか。
なぜなら、参加している皆さんが目指しているのは完走ゴールただ一つです。
たとえ到着時間に「五十歩、百歩」いや、「5千歩、五百歩」の差はあっても、だれもそんなことは気にしませんから。・・・