柏尾通り大山道を歩く(一)

池 内 淑 皓
 江戸時代も中頃になると戦乱も収まり、庶民は物見遊山に出かけるゆとりが出てきた。相州大山の石尊(せきそん)参りがその恰好の場所として、大いに賑わった。
 石尊参りは、毎年4月5日から20日までの春山と、6月27日から7月17日までの夏山の二回で、5〜6人の仲間と講を組み、両国橋の袂で水垢離(みずごり)を取ってから「大願成就」と書いた納めの木太刀を担いで一路大山を目指した。
 太刀を阿夫利神社に奉納して、帰りに代わりの太刀をもらってくる。それは源頼朝が戦勝祈願に太刀を奉納したことに由来する。江戸から直行すると13里(約52q)。朝早く出発すると、夜遅く山麓の御師(おし)の家に到着する(通常は2日かかる)
 当時は現在のように自由な旅ではなく、身分によってその服装も決まっていた。庶民は往来手形、関所手形を用意しなければならなかったが無病息災、家内安全、豊作祈願、そして商売繁盛の現世利益を願う農民、町民達で賑わった。
夏の両国橋を行き来する江戸庶民達、「奉納大山石尊大権現」と書かれた木太刀を持った大山詣の人達が見える。  【江戸名所記】
 
 大山に行くには、江戸を基点として東海道を川崎、神奈川を経て戸塚宿に来て、大山へ向かう柏尾通り大山道、赤坂御門から矢倉沢往還(青山通り大山道とも言う)等を行く道が一般的であった。私達も彼らの足跡をたどって見よう。
 道路地図帳(神奈川県広域道路図)又は国土地理院発行の地形図を片手に道しるべ、社寺仏閣、史跡、旧跡等を訪ねながら、気軽に歩けるよう記述してゆきたい。
 本稿で採り上げた柏尾通り大山道は、日本橋から戸塚宿までの間は、東海道を歩く事になるが、この間はさまざまな書物に記述があるので、日本橋―戸塚間の説明は割愛させていただく。
                 
 日本橋から東海道を歩いて、丁度十里(40km)、今宵の宿は戸塚宿となる。婦人、子供連れや、足の弱い旅人は神奈川宿か、保土ヶ谷宿泊まりであった。また元気の良い若者は、一路藤沢宿を目指した。
藤沢宿は遊行寺を控え、更に江ノ島、鎌倉道が分岐しているので、宿場はたいそう賑わった。従って旅籠が多く、遊女も多かったからである。
 柏尾通り大山道は、戸塚宿の柏尾が出発点となる。私達はJR戸塚駅から旧東海道を保土ヶ谷方面に向かって歩こう。戸塚駅の大踏み切りを渡る。やがて緩やかなS字カーブにさしかかると、そこは昔の戸塚宿江戸方の枡形跡である。上方の枡形跡は、富塚八幡宮のカーブの所がその名残だ。(枡形とは、外敵が一気に宿場に攻め込んでこられない様に、道をわざとカギの手に作る事を言う)
 道は柏尾川を吉田大橋で渡る。改装されてきれいになった橋の袂、歩道側に安藤広重描く東海道五十三次の版画「戸塚」の錦絵が、説明板と共に展示してある。絵の中に大山講中の木札と、背景の大山を摺り込んであるのがうれしい。この位置が錦絵の場所となっている。

 橋の袂から川沿いに右へ折れる道は鎌倉道である(日立横浜工場前、ユニー前を通り、県道203号線に沿って笠間十字路に出る。交差点を横切って資生堂、三菱電機大船工場前を抜けて常楽寺、小袋谷に至る)。広重の錦絵にはこの橋の袂に「かまくらみち」の道標が見える。この位置にあった道標が、妙秀寺の境内に移設されているから是非見て欲しい。(錦絵にある道標とは異なる)
 寺への行き方は、橋の袂から道なりに30m歩くと居酒屋があり、右に折れる小道を入ると、50m程で妙秀寺門前に出る。
石柱は二本に折れて途中で継ぎ足されている。昔、自動車がこの石柱に衝突して二つに折れて柏尾川に沈んでいたのを引き上げて運んだと言う。
江戸から丁度十里の位置は、この角の手前に戸塚観光協会の建てた説明板に記されている。
広重東海道五十三次 「戸塚」 (吉田大橋) 平成の吉田大橋

やがて道はスーパーダイエーの前を通る。この辺りが戸塚宿江戸方見付の跡であった。レストランの植え込みにいわれの碑がある。上方見付は、大坂下の富塚八幡宮の先に説明板と共に当時の鎌倉石を使って石組みが作られている。
                  
ブリジストン戸塚工場を過ぎるとすぐT字路に出るから、右折して50m先の信号を左折する。この細い道が旧東海道で、このあたり昔からの家並みが少し残っているのが嬉しい。おだやかな上り坂になると、ひょっこり不動坂の交差点に出る。
 信号に従って、目の前に見える交番側に渡って、横浜方面に20m程行き、自動車販売会社の脇道を左に折れるとすぐに、赤いトタン屋根のお堂が見えてくる。(脇道のフェンスに大山道の案内が出ている)
戸塚駅からここまで真っ直ぐ歩けば20分程であるが、妙秀寺に寄って、鎌倉道の道標を見てくると30分程になるだろう。
 ここが柏尾通り大山道の出発地で、大山前不動と呼ばれた。昔はここに阿不利神社一の鳥居が道を跨いで建っていたが、朽ち果ててしまった。この鳥居の扁額がお堂の中に保存されている。お堂は、道中の安穏祈念のために街道の入り口に祀られた。

前不動のお堂
                       
堂内には、延宝八年(1680)庚申四月朔日 「是よ里 大山道」(刻印のまま)と陰刻された道標と、その上に玉眼の入った不動明王坐像が安置されている。
お堂の周囲には、元冶二年(1865)松戸宿の講中が設置した常夜灯、明治五年下総葛飾の船大工鈴木松五郎勧進の大山道道標もある。これらは一括して横浜市の地域史跡に指定されている。
 さて、大山道はこの先JR跨線橋のため途切れてしまう。昔はここに大山踏み切りがあったが、列車事故を境に跨線橋となった。道は跨線橋脇の通路を通り東海道、横須賀線を越えると、阿久和川を富士橋で渡る。
この富士橋は、昔「猿橋」と名が付けられていた。橋の袂にその謂れが記されている。説明によると、江戸時代のある年、洪水で橋が流されてしまった。この時、この大山道を利用していた甲州の商人が、国許の猿橋(桂川に懸かる有名な橋)の古材を持ってきて橋を修理してくれた。村人はその恩義に感じて橋名を猿橋にした、と記述されている。
 江戸時代、文政年間に編纂された新編相模風土記稿巻百一 村里部鎌倉郡巻之三十三の阿久和川の項に“阿久和川上矢部村の界を流る、幅四間板橋を架す、長さ四間猿橋と名づく、上矢部村に跨がれり、是も大山道係る所なり”と記されている。
                   
 道はここから県道401号の瀬谷柏尾線を岡津まで歩く事となるが、この道に沿って阿久和川が流れているから、江戸時代にはその土手道も街道として利用されていた。新編相模風土記稿には、“大山道阿久和川に副ひて通ず幅二間“と記述されている。私達も車の排気ガスを避けて阿久和川の土手道を歩こう。この先阿久和まで遊歩道が完備されているから歩くには都合が良い。
 現在の富士橋を渡って、横浜新道を潜り、新道入り口取り付け道路を過ぎると、すぐ右手に流れる阿久和川の遊歩道に取り付く。
すっかりきれいになった川には、鯉が泳ぎ、親子連れの鴨が水を切る。白鷺も翼を休めている。この辺り昭和30年頃は両側全て田圃であった。
昭和頃の松尾神社、 石鳥居が見える(社務所保存の写真)
               
5分ほど歩くと、川の向こうに古林紙工の工場が見えてくる。工場入り口の道をかもめ橋で渡り、工場の角を右に入ると松尾神社の石鳥居が見えてくる。土地の人に親しまれてきた明神様である。工場が出来る前は、田圃の中に土手道が神社まで続いて田舎の風情たっぷりであったが、今は工場に隠れて神社は見えない。祭神は大山祗命、本殿の傍らには蚕霊神が祀られている。境内には天保五年(1834)の水盤や、寛政八年(1796)の石燈籠が寂しく取り残されてある。
 土手道を西にたどろう。やがて岡津に入り、川は二手に分かれると、道路脇に大きく村社三嶋神社の標柱が建っている。
三嶋神社一帯は昔城山と呼ばれていた。戦国時代ここには上杉定正の子朝良が入っていたが、永正九年(1521)小田原北条氏によって滅ぼされた。江戸時代に入ると代官が置かれ、彦坂小刑部元正、旗本の黒田氏がここに陣屋を置き、村を治めたと言う。岡津小学校の校庭の辺りは、その馬場の跡と言う。新編相模風土記稿によると、“岡津村江戸より行程十里、当所は右大将頼朝の時鶴岡八幡宮の供僧等が給田に宛らる。そして、彦坂小刑部元正陣屋跡村の中程に在り、元正は天正十八年関東御入国の後、近郷の代官職を奉り、その頃居住の陣屋なり”と書かれ、さらに“大山道幅二間村の中程を東西に貫く”と記されている。
岡津の三嶋神社
 三嶋神社へは、大山道からまっすぐ岡津小学校の校庭を通り抜けて行ったのであるが(神社への参道)、今は校庭の外をぐるりと回って行く。社は岡津の鎮守で、祭神は大山祗神。
 また、目の前の「白百合団地入り口」信号のT字路交差点を左に100m程行くと亀鶴山西林寺の甍が見えてくる。浄土宗で本尊は阿弥陀如来、境内のしだれ桜は、横浜市の名木に指定されている見事な桜である。また境内には貞和三年(1347)銘の板碑があるが詳細は割愛させていただく。
 大山道は白百合団地入り口のT字路交差点を通過し、更に川沿いに200m程歩き、左折する。阿久和川を不動橋で渡ると、永明寺別院の白壁に沿ってゆく。程なく正面入り口に庚申塔を兼ねた大山道の道標、三山供養塔(月山、湯殿山、羽黒山)らが置かれている。
庚申塔は先ほど渡った不動橋際にあったが、河川改修でここに移された。石には享保十年(1725)乙巳年十一月吉日 「大山道、右ほしのやみち」と彫られている。ほしのやは座間にある星谷観音のことである。
永明寺別院前の庚申塔、供養塔

 道はこの先永明寺前を通り、昔ながらの大きな農家が続く小道を行く。忠魂碑を左に見て、ゆるやかにカーブを曲がると、傍らに地神塔や庚申供養塔がひっそりと残されている。庚申塔には安政二年(1855)「下りかしを、上り大山道」と読める。
昔はここから男坂、女坂と名のついた急坂を、今の国際親善総合病院裏の道まで登り詰めたのであったが、宅地造成のために大山道はぷっつりと途絶え、地形も全く変わってしまった。
 庚申塔から先は、道なりに行くと公園に出て、中川地区センター前を通る。センター前の公園を横切って広い道に出ると、スーパーいなげやの前に出るから左折して100mで、国際親善総合病院の前の交差点に出る。この交差点を西へ400m程行けば相鉄線の弥生台駅がある。
 大山道は病院脇「西が岡一丁目西側信号」交差点の狭い急坂を行く。100m上り詰めるとT字路に出るから、左折し更にT字路に出ると、今度は右折する。この道が大山道である。振り返ると急坂であった事が良く分かる。
この辺り両側は畑が残る寂しい道ではあるが、昔ながらの風情ある大山道が残っている。ここの一番高い場所に五輪塔が乗った「狢塚」(むじなづか)と言う小さな塚があったが、宅地造成で失われてしまった。
狢塚先の柏尾通り大山道  旧態が良く残っている

 大山道は広くなった畑道を行く。数分で「和泉小学校入り口」の信号機付き交差点に出る。南北に走る県道阿久和鎌倉線は「かまくら道」と呼ばれている。
交差点際に大山道の庚申塔があり、道路拡幅改修時に市役所が設置した、柏尾通り大山道の案内板がある。
庚申塔には「東かしを 西大山道 南ふじ沢 北八王子道 文化六年(1809)」と彫られている。
このかまくら道は中世では重要な道のひとつで、鎌倉と八王子の滝山城を結んでいた。北条氏が守る滝山城は、甲州口を固める重要な拠点であったと言う。
 大山道は西に向かう。晴れていれば和泉小学校正門あたりから、道の正面に大きく大山が聳えて見える。学校の正門前から西へ50m行き、T字路を左に折れる。畑の中に天保十四年の(1843)出羽三山の供養塔が立っているから、目印に丁度良い道標だ。
この角から道なりに1km程歩くと、県道22号線の長後街道に出る「泉区総合庁舎東側信号」。
ここからは長後街道と道を合わせて西にたどることになる。
                   
この交差点一帯は、道路の拡幅工事で大山道の旧道は失われてしまったが、角の小高い塚の上に明神がある。この明神は、小泉次郎が鎌倉時代の建暦二年(1212)この近くの、須賀神社の辺りに城を築いた時の、鬼門除け守護神として勧進したものと言われている。
明神の傍らには、蚕を祭った蚕御霊神と庚申塔が残されており、いずれも大山道のしるべを兼ねている。
 200m程で泉区総合庁舎前、そして相鉄いずみの線いずみ中央駅前に出る。戸塚駅からここまで約10km。寄り道しながら歩いて3時間程であろうか。ここでお昼にしても良いし、出発が遅ければここで歩行を止めても良い。下り電車に乗れば、湘南台、藤沢方面。上りは二俣川、横浜行で、快速電車が走っているから便利だ。
                                        (その一完)