随筆


ひとり歩きのすすめ

八柳修之
金沢の香林坊(繁華街)の一角に「歩き」をデホルメした彫像
 HPのアーカイブスをめくると、和澤 潔さん(故人)が、14年6月、「たまには一人歩き」と題し、「一人歩きをあなたのウォーキングに加える事によってウォーキングライフは一段と充実したものになる。必ず新しい発見、出会いがあるから嬉しい」と、すすめている。
 一人歩きとは「独歩」。独歩といえば、国木田独歩の「武蔵野」を連想する。恥ずかしながら「武蔵野」読んだことがなかった。有名な小説であるが、もう書店の本棚にはない。藤沢市南図書館に古ぼけた新潮文庫があった。
「武蔵野」は明治31年の作品、「武蔵野の俤(おもかげ)は今わずかに入間郡に残れり」で始る全文23頁に過ぎない短編であった。武蔵野を一人で歩いたのではなく友達と歩いたようだ。当時の武蔵野の情景や出会った人々が描かれているが、凡人には特段の感興もなかった。
 しかしウォーキングの格言にも通ずるような部分があった。「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向く方へゆけば必ず其処に見るべく、聞くべく、感ずるべき獲物がある」(文庫版13頁)
 
 ところで、独歩の名の由来であるが、一人歩きから来ているものではなく宋代の禅僧無彗関の説法から来ているということが分った。「大道無門 千差有路 透得此関 乾坤独歩」(大いなる道に入る門は無いけれども、その門はまたどの路にも通じている。この(無関)関を透り得たならば、その人は大手を振って大地宇宙を闊歩するであろう) 
 和澤さん、5月7日、三回忌を迎える。奥さんが考案したゆっくりウォークの旗は今日も和澤さんとともに歩いている。