川澄 武雄 |
その昔 日本がまだ東洋の小国であった頃、多摩丘陵の一寒村に すぎなかった鑓水(やりみず)村が、遠くアメリカやヨーロッパから 「江戸鑓水」と注目を浴びたことがありました。それはこの村から 生糸の貿易に携わる多くの商人がでてきた事によるものでした。 山間の小さな農家の片隅で引かれた細い生糸は太い束となり、 大きな荷駄となって、「絹の道」を通り抜け、港へ集められ、世界へ 旅立って行ったのです。 −「絹の道資料館」の案内から− |
コース: 片倉城跡公園−絹の道−絹の道資料館−南大沢 9km |
JR横浜線・片倉駅(八王子市)近くの片倉城跡公園をスタート。 丘陵地の市街をぬけ八王子バイパスを越えると「絹の道」に入る。 そこから付近の最高地点へ150段ほどの階段をのぼると鑓水峠だ。 小高い森の中に「絹の道」の石碑がひっそりと建っていた。 |
「絹の道」碑から1km余り、緑が濃い樹木の下を山道がつづく。 絹の道は2、3mの道幅だが、静かで姿のいい道だ。この道を歩いて いると生糸の袋を背中に振り分けた馬や、繭袋をかついだ商人達の姿が 垣間見えて、彼らの息遣いまでが聞こえてくる。 昔の面影をよく残している未舗装の道は、文化庁の「歴史の道百選」にも 選ばれた。 峠を下りると「絹の道資料館」がある。 「絹の道」は横浜への道で「浜街道」と呼ばれた。安政6年の横浜開港から 鉄道が開通するまでの間、この道は八王子近郊はもとより長野 山梨 群馬 から輸出用生糸が運ばれた道である。 現在はこのルートをJR横浜線が走っている。もともと生糸を運搬する 目的の鉄道で、明治41年に全線開通した。全長42.6kmである。 |
絹の道資料館 八王子は戦国時代は城下町として、江戸時代は甲州街道の宿場町として 栄えた。幕府の直轄地である。八王子は多摩地域の中心で、古くから 絹織物、養蚕業でも栄え「桑都」の美称がある。 幕末に黒船が来航して、横浜が開港すると、多摩の奥深いこの地域にも 時勢の大波が押し寄せた。京都の西陣など国内需要に応じていた生糸の 生産が、欧米への輸出で道が開き、その恩恵を大きく受けたのであった。 欧米でシルクブランド ”Edo-Yarimizu"が有ったかと想うと愉しい。 |
「鑓水商人」とよばれる仲買人が輩出して財を成したのがこの時期だ。 彼らは地産の生糸を、横浜の生糸商人へ販売し巨富を築いた。しかし 流通が最終的に卸・小売業の手に委ねられるのは今も昔も変りがない。 鑓水商人たちも いつしか横浜の輸出業者に商権を握られ、勢いが衰退し ついには彼らの下請けの生産農家までもが困窮していった。 また生糸の輸出量は年をおって増加したが、そのうち海外では日本の 生糸は太く不揃いで品質が悪いと評価されだした。これは座繰り製糸 (家内工業)のせいだった。そこで明治政府は国営の富岡製糸工場を つくり、新鋭の機械をフランスから導入した。このような動力機械化も 鑓水商人の衰退の理由である。 |
鑓水商人の役割は終わった。この地域の絹の繁栄の期間は僅か30年程に すぎず、近代経済史のなかの一瞬の光芒に哀しみを感じる。 「絹の道資料館」は鑓水商人の盛衰・・彼らがどのような背景で生まれ、 大活躍し、消滅したかを判りやすく伝えている。当時の器械、道具なども 展示している。 この資料館の本館は鑓水の村名主で有力商人であった八木下要右衛門の 屋敷跡にある。 |