「おりょう」 

川澄 武雄
甘い、可愛い音色である。ただ、ときどきするどい
音色がまじる。そういう音色が、どこかおりょうと
いう女に似ているようであった。

          司馬遼太郎 「竜馬がゆく」

横須賀をウォークしたとき、信楽寺(しんぎょうじ)という浄土宗の
お寺を訪れた。本堂の一角に坂本竜馬と、その妻おりょうの何とも浮世
離れした木像があった。満月の形に似た、径が一尺あまりの月琴もある。
清国より渡来の、この新しい楽器を おりょうは良く弾いたらしい。

それにしても、なぜ横須賀に竜馬とおりょうがいるのか

信楽寺門前

おりょうは京の町医師 楢崎将作の長女で名を龍(りょう)という。
楢崎将作は井伊直弼の安政の大獄で捕われ獄死した。坂本竜馬がそんな
おりょうの境遇を見かねて寺田屋の女将、お登勢(とせ)にあずけた。
寺田屋は天下に名が聞こえた伏見の船宿である。

「年は二十三、もと十分大家にて花生け、香を聞き、茶の湯などは
致し候へども、一向かしぎ奉公(炊事仕事)などはすることかなはず」
これは竜馬が国許の姉、乙女に送ったおりょうについての手紙の一節
である。

おりょう
(信楽寺門前の案内では写真の女性を、<伝・おりょう>と
 しているが、昨年 当局の鑑識によっておりょう本人と証明
 されている)
慶応2(1866)年1月24日未明。坂本竜馬の寺田屋事件。
竜馬の尽力で薩長同盟がようやく締結した。竜馬は安堵して寺田屋の
二階で長州の三吉慎蔵と酒を飲んでいる。午前3時ごろに伏見奉行所の
数百人の幕吏が寺田屋を囲んだ。おりょうは竜馬と慎蔵の寝床をとった
あと階下の風呂に向かった。

「おりょうは、素裸になった。小柄だが、色が白く、肉付がしまって、
敏捷(びんしょう)な森の小動物をおもわせるような体をもっている」

 司馬センセイの女体描写はこんなものだ。大体がいつもこうなのだ。
遠い記憶でエエカゲンだが、「梟の城」の小萩もよく似たものじゃ
なかったかな?こんな教科書のような文章では、妄想などつけようがない。
渡辺淳一のように、ひと晩のあれこれを10日間も新聞連載されるのも、
ちょっと閉口だが・・。


おりょうが窓から覗くと びっしりと人がいて、提灯が動いている。
驚いて風呂からとび出して二階の竜馬らの部屋へ知らせに行った。
そのとき素裸だったというのが、おりょう伝説だが、話としては
できすぎているか。いずれにしろ、京都の1月、午前3時の話だ。
宿屋の裏階段には明かりの一つもあったろうか。

見かえり観音

「竜馬がゆく」に、「菊の枕」という1章がある。(文春文庫 第5巻)。
寺田屋の女将、お登勢は菊がとても好きで、庭や軒下に嵯峨菊、伊勢菊、
肥後菊などいろいろな菊を育てゝいた。菊の季節には心がうきうきする。
ある日、おりょうがお登勢に庭じゅうの菊をみんな欲しい、竜馬のために
花しべだけで菊の枕を作りたい、と言ってお登勢をあきれさせた。そして
その夕、庭のすべての菊が切取られた。
後にお登勢からこの話を聞いて竜馬の顔色が変わった。お登勢は竜馬の
怒っている顔をはじめて見て、おそろしさに身がふるえた。

「これは創作で事実ではない。こういう仕掛けはこの作品に山ほどある。」
「司馬遼太郎という人」(文春新書)の中で司馬遼太郎と30年の間、編集者としてつきあった和田宏さんが書いている。
「おりょうが竜馬のために菊の枕を作ったなんて、ぼくのつくり話だぞ」
これは司馬遼太郎が和田さんに話した言葉である。
 大衆演劇のある作家が司馬遼太郎の「竜馬がゆく」と関係がない、竜馬が主人公の芝居を書き、この菊の枕の話を使った。それについて司馬は怒ったという。司馬遼太郎は自分の創作を断りなく使われたから怒ったのではなく、こんな事を無神経に繰り返しているといつのまにか、それが史実として扱われるのをおそれて怒ったのだ。司馬自身が史料調べをしていて、そのような「史実」にしょっちゅう出くわしていた。一方で司馬遼太郎は司馬独自の歴史観が盗用されても怒ったことは殆んど無かったそうだ。
 このことは当然で「竜馬がゆく」は史実を背景にしてはいるが、あくまでも作家のフィクションであって、坂本竜馬の伝記ではないのだ。
 和田宏さんの「司馬遼太郎という人」は作家のナマの言葉をもとに構成
されていて、作家の人となりが身近に感じられる好著である。


 境内に墓があり [ 贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓 ] とある。坂本の字が間違って彫られている。
竜馬は慶応3(1867)年秋に、宿の近江屋で刺客に襲われ死亡する。33才。
小説「竜馬がゆく」でも、おりょうの消息はここで切れる。
 竜馬の死後、おりょうに苦難の歳月がつづいた。竜馬の遺志によって、おりょうは土佐の竜馬の実家でしばらく過ごしたようだが、竜馬の姉乙女と不仲であったか、土佐を離れ京都、大阪から東京に出た。竜馬と親交があった西郷隆盛や勝海舟、竜馬の海援隊士らを訪ねたとか、諸説があるようだ。明治8年 おりょうは現在の横須賀市で行商人の西村松兵衛と再婚した。厳しい後半生であったようだ。明治39年66歳で死去。信楽寺の住職らによって手厚く葬られた。そして京都霊山護国神社の竜馬の墓にも分骨されているらしい。

横須賀をウォーキングしておりょうの事跡と出あうことなど予期せぬことだった。おりょうに特に関心もないし、私の知っているおりょうは昔読んだ「竜馬がゆく」だけである。それでも墓前で掌を合わせると、時代のうねりに巻き込まれ、虚空に放り出された一人の女性を想うことになる。三十代半ばの奔放な京女が坂本竜馬の影を引きずって異郷横須賀の浜辺をゆく姿は哀しいし、さらに憔悴した晩節を想うと、ほとんど能楽の世界のようだ。
暑いさなかだが久しぶりに古い本の頁を繰って、懐かしく一日を過した。

信楽寺本堂