「あの夏、少年はいた」

    川澄 武雄  
少年も少女も齢(よはい)重ねたり
ふつふつと粥煮ゆるときのま

8月15日夜、なにげなくテレビを見ていて「あの夏、60年目の恋文」
(NHK/BS)をみた。60年前の戦時下と現在を往き来するドラマ風の
ドキュメンタリーに、私はいつしか引き込まれていた。
 「あの夏、少年はいた」
1944(昭和19)年6,7月
奈良女子高等師範学校(現 奈良女子大)付属国民学校 4年男子組に
教育実習の雪山汐子さん(20)が配属される。34人のクラスである。
     「国そのものがギシギシと壊れ始めたまさにそのとき、
     彗星のように顕れた<雪山先生>は、あの教室いっぱい
     に計り知れない喜びを私たち子供たちにふりまき・・」
時代は国威宣揚や挙国一致の暗く重い空気に満ちていた筈だが、この
学校には まだ自由で明るく豊かな教育現場があった。

2003年8月
69才の男性がNHKの終戦記念特集のDVDをひとりで見ていた。それは
1979年の再放送番組で「昭和万葉集」と題されたものだ。見進んでると、むかし見慣れた飛行機のモノクロの写真があらわれ、そこに一首の短歌がスーパーインポーズされた。

   君が機影 ひたとわが上に さしたれば
     息もつまりて たちつくしたり    川口汐子

詠み人がインタビューされている。20歳で結婚した相手は海軍航空隊
の訓練教官。結婚後まもなく特攻隊員と共に出撃することになった・・
「汐子」は恋い焦がれた先生の名前であった。書斎から古いアルバムを持ち出し 汐子先生を確かめた。すると多くの記憶がよみがえり眩暈としかいいようのない感覚に襲われる。

その間わたしのいる部屋の外には、日頃の街はなく、
 地球もなく、そして音もない、ただ無限の闇の宇宙の中で、うずくまっている自分の意識だけが部屋とともに浮遊しているような感覚、この感覚を味わうために自分は生まれてきたのかな……それはそれは
 甘美な時間でした」

テレビ画像を見て男性は川口汐子さんに手紙を送る。そして翌年姫路に
川口さんを訪ねる。

「あの夏、少年はいた」(れんが書房新社2005)は、その後のお二人に
よる往復書簡をまとめた本である。雪山先生の「教生日記」も紹介され、
生徒や教師たちの学校生活がしだいに明らかになっていく。

    「寮ではあすタナバタマツリをしませうよと三年生の企画。
    色とりどりの紙が配られる。星への願ひも祈りも、誰しも
    痛いものがあるだらう。そして本当の願ひは心の中に書く
    だらう。おふとんかぶって、少し泣く」 −教生日記−

お二人は今もご健在である。

川口汐子さん(1924生)
姫路市在住 歌人、児童文学作家

岩佐寿弥さん(1934生)
東京在住 映画作家、TVディレクター

2006年8月
「あの夏、少年はいた」を原作にNHKが「あの夏、60年目の恋文」を
製作・放送した。実際の川口さんと岩佐さんがメインキャストである。
このほど私が見たのは、この番組の再放送であった。

「あの夏、少年はいた」には、お二人と関係の深い人々の感想文も収め
られている。このなかで、なかにし礼さんが「人間は誰でも、心の中に
追憶の映画館を持っています」と書いておられる。
私もこの本を読んで、お二人の数奇な運命におどろき、人の世のすばら
しさを思い、また時間のもつ不思議さを思った。

今回 知人にこの本や番組のことについて聞いた。どうやら双方とも
評判になったものらしい。迂闊なことだった。
この本は、お二人の人柄の所産であるが、お二人の感性や観察力、
表現力が豊かであったからこそ生まれたものだとも思う。
藤沢市の図書館にもあります。 ご一読いかがでしょうか。