連載


―  松尾芭蕉 と 伊能忠敬  ―
黒江 輝雄
 芭蕉と忠敬との間には何の脈絡も因果関係もありません。ともに江戸時代に生まれ育って生涯を終えた人達で、芭蕉の方が約百年ほど先に生まれています。
ご存知のとおり、芭蕉は今でも読み継がれている「奥の細道」などの俳句・紀行文で知られています。忠敬は現在の日本地図の原型ともいえる「大日本沿海輿地全図」の大作を完成させました。

 芭蕉についても忠敬についても、通り一遍の知識しか持ち合わせていない私がいうのもなんですが、ご両人とも一念発起して、旅に出掛けたのは中年を過ぎてからのことです。
芭蕉が長年住みなれた千住の芭蕉庵を人に譲り、一番弟子の曽良を伴って「奥の細道」の吟行の旅に出発したのは、旧暦の3月末でした。ちょうど梅雨時にさしかかろうとしていました。有名な句、
         
五月雨の降り残してや光堂
         五月雨を集めて早し最上川
         象潟や雨に西施がねぶの花


などはその情景を吟じています。旅の道中では何度も五月雨(今で言う梅雨のこと)に出遭ったはずです。旅の終着である大垣についたのは8月末でした。

 忠敬は測量隊を編成して全国各地を何度も回りました。
幕府御用達ということで、諸大名の協力を得ていたようですが、たまには事情をあまりよく知らない出先役人に冷たくあしらわれて、幕府に苦情を申し立てていました。その記録が残っています。

 ところで、ご両人は勿論のこと、当時の人達にとって旅に出るということは、草鞋を履いて“歩く”ということでした。今風にいうと“ウオーキング”です。それが常識でした。
だから、「奥の細道」にしても忠敬の記録も“歩き”で苦心した様子の記述は見当たらないようです。“歩き”を日常生活の当然の動作として受け止めていた事がうかがえます。
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 昨今の“ウオーキングブーム”とは、「文明の利器の利用を排除して人間本来に供わっている機能を十分に発揮しよう」という警鐘かも知れません。