紀行文
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八柳 修之 | |||
鎌倉の七福神めぐり、藤沢の七福神めぐりは一般によく知られているが、近くの村岡にも七福神めぐりがあった。お正月、良いお天気でもあったので初歩きしてみた。 村岡の七福神は殆ど知られていない。それもその筈、数年前、地域の人がまちおこしのために始めたとのことである。七福神はすべて真新しい石像である。しかし、村岡の歴史は藤沢では古い。10世紀ごろ、この地方に勢力を持っていた平良文が935年に平将門を討って関東の大勢力となり、村岡城址は平良文の居城跡とも言われている。 1192年に源頼朝が鎌倉幕府を開くと、村岡は鎌倉への道筋にあたり賑わった。 鎌倉との結びつきが強く、昭和16年藤沢市に合併されるまで旧鎌倉郡に属した。 そういう訳で寺社が多い。七福神の所在地は、村岡地区くらしまちづくり会議が発行した「むらおか歴史の道」を参考に道順を決めた。なお、文中、歴史に関する記述は、「むらおか歴史の道」(前掲)および「藤沢史跡めぐり」(藤沢文庫刊行会編)を引用した。 川名御霊神社(福禄寿) ![]() 再び交差点まで戻って、川名東橋を渡り柏尾川右岸の側道を藤沢病院の裏の先、小公園まで、左折し、バス停みどりの園を通り、その先、三喜工業T字路を左折、突き当りが宮前御霊神社。
村岡五ケ村(高谷、小塚、弥勒寺、宮前、渡内)の総鎮守。天慶3年(940)の創立、平良文が平将門を討つため京都の御霊神社(祭神早良親王)から勧請し、のち、鎌倉権五郎景政、葛原親王、高見王、高望王を加え五座となった。鳥居をくぐると幹周り4.8mのタブの木がある。石段54段、辛ければ右手に女坂がある。この小高い丘(東海道線で東京方面右側から岸壁が見られる丘)は旗立山と呼ばれ、前九年の役(1056)出陣にあたり源頼義が、山に白旗を立てて軍勢を集めたという。 神社の裏手にはわずかに鎌倉古道(上下って行くと資材置場、左折して進むと村岡跨線橋、富士山が観られた。ミズノの運動場の横を村岡東2丁目の信号まで進み、左折、坂道となり右側、目下武田薬品の研究所建築中、湘南レジデンスというアパートの角を曲がり、100m余りエスポールというアパートまで進むと右側、奥まった所に高谷大神宮があった。 高谷大神宮 (大黒天) ![]() 日枝神社(弁財天) ![]() 日枝神社前の道を道なりに西へ進むと、突き当りが312号小袋谷藤沢線の渡内信号、教会がある。左に曲がり進むと混生樹で有名な慈眼寺があるがパス。25m道路の312号田谷藤沢線との交差点に出る。角が村消防署、横断して直進、二つ目の信号、KPSカパスの角を曲がると、柄沢神社がある。 柄沢神社(恵比寿神) ![]() 村岡消防署まで戻り、312号線沿いの道を下る。天嶽院の前を通り、小塚の信号、コンビニ快活クラブの角を右折、312号線と並行した道を行くと右側に荒神社がある。これまでの寺社と違ってちっぽけなので見過ごしてしまい一旦戻ってしまった。 荒神社(こうじん)(布袋) ![]() 荒神社を後に道を突き当りまで進み、右に曲がると弥勒寺。 弥勒寺(毘沙門天) ![]() ご本尊の弥勒菩薩は本堂に安置されている。弥勒寺が村岡小学校創立時の明治6年頃には学舎であった。
これで村岡七福神めぐり完歩です。約10km前後でしょうか。左のご朱印は宮前御霊神社で志納500円。 |