「連載」

   
                  

池 内 淑 皓
 今回は、三軒茶屋から歩きましょう。
東急田園都市線の三軒茶屋駅で改札を出て、世田谷線乗り場方向に歩き三軒茶屋交番出口から地上に出る。
出口の前に小さな時計塔があって、そこに大山街道の説明板があるので、これからのしるべの目安としよう。
 三軒茶屋の名の起こりは、江戸時代ここに三軒、茶屋があったのでその名がついた。信楽屋さん(あさひ銀行の建物)、田中屋さん、角屋さんである。
交差点にある文化九年(1812)の道標によれば、左相州大山道、右富士、世田谷、登戸道と陰刻されている。江戸初期は右側の道が大山道であったから、中期以降は左の道に変わった事が分かる。
 排気ガスと高速道路の喧騒のない右の旧道(現世田谷通り)を行こう。
600mほどで環状七号線と交差するので、そのまま直進する。交差点の先、進行方向の若林三丁目バス停前の小道を左へ20m程行くと、常盤塚(区旧跡)がある。
 室町時代世田谷城主吉良頼康は、奥沢城主(目黒)の愛娘常盤を娶った。寵愛をねたみ讒言にあった常盤は、生家に帰る途中ここで殺された。真実を知った頼康は塚を築き、手厚く弔ったと言う。

松蔭神社
 バス道に戻り200mほど行くと松蔭神社入り口、と表示のある交差点に出る。右折して賑やかな商店街を数分歩くと松蔭神社に到る。ここには長州萩藩、吉田松蔭の亡骸が安置されている。吉田松蔭は、天保元年(1830)萩に生まれた。同六年吉田家を継ぎ吉田寅次郎となる。
学問を修め松下村塾を開き、明治維新を通して、近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出させた。
しかし過激な言動により安政の大獄で幕府に捕らえられ、江戸伝馬町の牢屋敷に送られる。
奉行の池田頼方は流罪相当を老中に具申したが、大老井伊直弼は流罪の「流」を朱筆で「死」に書き改めたと言う。
安政六年(1859)十月牢屋敷内で打ち首、享年30才。死体は千住小塚原に埋葬された(主として罪人を処刑する場所)
吉田松陰の墓

 文久三年(1863)伊藤博文、高杉晋作らは遺体をここ世田谷若林の、長州藩毛利大膳大夫の抱え屋敷に埋葬した。皮肉なことに、井伊直弼とは背中合わせに眠っていることになる(後述)

 大山街道に戻ってさらに500m程行くと、右手に大吉寺、円光寺と寺が並ぶ。ここのT字路を左折し、更に目の前の世田谷中央病院前を右折して200m程行くと、左手に大きな藁屋根が見えてくる。ここが有名な大場代官屋敷である。
江戸時代のほぼ完全な代官屋敷遺構として、国指定の重要文化財になっている(月曜日は休館)
 世田谷二十ヶ村は彦根藩井伊候の下屋敷なのだ。江戸時代城持ち大名は、上屋敷(殿様、奥方、重役が居住)、中屋敷(主として下級武士等が居住)、下屋敷(賄い地)を賜った。
大場代官屋敷
大場家は天正の頃(1570代)から世田谷吉良氏の重臣としてここに住み、江戸時代になって寛永十年(1633)井伊直孝から代官を命ぜられ、明治になるまで235年間彦根藩を支えた。
代官は領民に倹約を奨励させるため、夜なべで繕ったぼろ、農具を持ち寄って、屋敷の前で物物交換を奨励した。今も世田谷のボロ市として年の暮れと年の初めの十五・十六日
に開かれている(ボロ市の始まりは世田谷城主吉良氏朝が、天正六年楽市を開いたのが始まりで、吉良氏が滅んでから一旦衰えた)
 吉田松蔭に死を与えた井伊直弼は、わずか五ヶ月後の安政七年三月、桜田門外において水戸・薩摩の浪士らに暗殺された。
井伊直弼の墓

亡骸は村民に見守られながら豪徳寺に埋められた。豪徳寺は代官屋敷から、目と鼻の先である。
 横浜戸部の掃部山公園に「みなとみらい21」を見守るように、正四位正装姿の井伊直弼の銅像が立っている。安政元年(1854)三月、もし日米和親条約が結ばれなかったら、今の横浜はなかったに違いない。
 豪徳寺の地続きに世田谷城跡がある。城は室町時代吉良治家が戦功により世田谷領を賜り居住したが、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐で廃城となった。後、吉良氏は家康の計らいで上総の長柄に所領を得ている。
豪徳寺

吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、三州吉良荘より起こった。世田谷吉良氏はその庶流で、足利義継を祖としている。吉良氏の菩提寺は江戸時代を通じて旧領の世田谷勝光院に定められ、ここには吉良氏一族の墓が祀られている。
豪徳寺に行くには、世田谷線で「みやのさか」下車、東へ徒歩5分のところにある。また代官屋敷から北へ歩いて15分程で行ける。勝光院へはみやのさかから南に5分である。
 さて、大山道は代官屋敷前を西に向かう。すぐに世田谷通りに突き当たるから左折して目の前、桜小前の信号を左に入る。鈴正畳店(大山道の道標があった)を右に見ながら直進し、弦巻商店街を行く。
弦巻四丁目、陸上自衛隊、上用賀一丁目の交差点を過ぎれば、朝出発の時分かれた新道(現国道246号)と合流し、程なく新玉川線用賀駅前にひょっこり出る。
用賀は室町時代、永禄年間に北条氏の家臣、飯田帯刀の子飯田図書よって開拓された。
歩き疲れてお腹がすいたらここら辺りでお昼にしよう。

 街道は真っ直ぐ東名高速道路をくぐり、200mも行くと延命地蔵の立つY字路に出る。
右に行けば次大夫橋を通り多摩川に至る慈眼寺線大山道。左に行けば調布橋を通って、多摩川に至る行善寺線大山道となる。
私たちは本道の行善寺線を歩くことにする。やっと静かになった町並みの中を200m程行くと、渋滞で有名な環状八号瀬田交差点に出る。横断歩道橋を通って南へ、前方に見える瀬田交番前の道を左手にたどって行くとやがて行善寺門前に出る。
 江戸時代行善寺からの眺望は素晴らしく、江戸の人達の行楽地として文人墨客が多く訪れている。是非一休みして行きたいところであるが、今はデパートやマンション群で見晴らしは悪い。

 道は寺の前の急坂を下る。この坂を行火坂(あんかざか)と言う。あまりにも急坂で背中が行火を背負ったように暑くなるからだと言う。下りきると六郷用水を調布橋で渡り、左折して20m行くと、安永六年(1777)に立てられた大山道の道標がある。右東目黒道、南大山道、左西赤坂と読める。
街道は多摩川で船渡し
 六郷用水は、慶長二年ここの代官小泉次太夫が指揮をとり、泉村(現狛江)で取水して川崎・六郷までの距離を12年の歳月をかけて完成させた。難工事であったと言う。
道標に従って右折して南に道をたどると、東急大井町線をくぐる。なおも道なりに歩くと、「玉川湯」の銭湯前に出るから、そのまま南に道を取る。玉川陸閘を抜けると、多摩川に突き当たり船渡しとなる。ここから対岸の二子神社に向けて船が出ていた。
ざぶざぶと川を歩くわけには行かないので、土手沿いの道を上流に向かって歩き、二子橋裾(階段がある)から二子橋を渡って、対岸に出ると神奈川県に入る。
 日も西に傾きかけたので、ここら辺りで完歩としよう。目の前に東急田園都市線の二子新地駅がある。東京方面、横浜方面どちらへ帰るにも便利だ。 (つづく)