9世紀頃の平原はトルコ系遊牧民、ウイグル族、キルギス族が跋扈していたが、次第にモンゴル系の“萌古”らが台頭してくる。
12世紀に入ると一部族の「テムジン」が諸部族を統一して、1206年の部族長老会議でハーン(北方遊牧民の君主)に推戴されて、チンギスハーンが誕生する。彼は強力な軍事力を背景にモンゴル高原を統一し南方の金、西夏、西の西遼を討ちクリミア半島まで進出した。
チンギスハーンの遺志を継いだ「オゴデイ」はハラホリンに首都カラコルムを建設した。
次の宰相クビライは1274年日本を属国にすべく、第一回の遠征(文永の役)を行い、11月19日二万の兵力で日本に上陸したが、台風のために数百の艦船と一万三千の兵員が海の藻屑と消えた。
更に翌年国書を持って、日本へ降伏勧告の使者を使わしたが、時の執権北条時宗によって処刑されてしまう。
亡骸はうち捨てられたが、現在江の島に近い常立寺に伝元使塚として供養塔がある。在日モンゴル人は時間があればこの寺を訪れ、供養塔に青い布(ハダク)を巻き付けて彼らの霊を慰めている。
ハダクはモンゴル人にとって神聖な布だからである。
1281年クビライは第二回の日本遠征(弘安の役)を実行した。インドを別にすれば、日本はアジアで唯一クビライの支配が及ばない国である。“服従せよ!”の要求に、使節の首を刎ねての回答であった。
900隻の艦隊が南から10万、華北から更に4万の兵力で日本に向かい九州に上陸、戦闘は二ヶ月に及んだ。そして再び台風が来襲、6万人のクビライ兵が溺死して軍隊は壊滅した。
1279年中国「宗」はクビライハーンによって滅ぼされ、「元」が生れた。首都を大都(現在の中国北京)に移すが、日本遠征がもとで次第に国力は衰退に向かう。
クビライの青春時代を輝かしく飾り立てた数々の栄光は、晩年になると総てが裏目に出てしまう。
1281年妻のチャブンが死ぬ。1285年には息子のチンキムまでもが死んでしまう。総ての失意のうちに1294年世を去る。お酒に溺れ、その姿は哀れであったと言う。
遺体はモンゴリアに運ばれ、ヘンテン・ヌールの一角に埋葬されたが、今以てその場所は分からない。
中国では元の後「明」が成立、モンゴルはたびたび中国に遠征し、失地の回復を計ったが、部族間の結束がなくなってしまった、ハルハ族は中国の支配下に、バイカル湖周辺はロシアに浸食され、ゴビ砂漠南部の部族は中国の軍門に下ってしまう。かつての栄光はここに終焉を迎えた。
チンギス、クビライが征服した領土は、アレクサンドロス大王帝国の4倍、ジュリアスシーザーのローマ帝国の2倍と言う世界最大の版図を持ったモンゴル帝国の寿命は、200年と持たなかった。
西はドナウ川から、東は朝鮮半島まで広がる広大な帝国を築いたモンゴル人の末裔にとって、チンギスハーンの名は、民族のシンボルそのものなのである。
{モンゴル帝国の戦い ロバートマーシャル著 遠藤利国訳 東洋書林から抜粋、一部他の文献から引用}
最後に忘れてはいけない
ノモンハン事件(モンゴル側ではハルハ河の戦争)について記述しておきたい |
1939年5月11日、中国北東部の旧満州に駐留する旧日本陸軍である関東軍は、当時のモンゴル人民共和国国境付近に侵攻する。小さな小競り合いがやがて拡大し、日本・満州国軍とモンゴル・ソ連連合軍との戦いに発展する。貧弱な装備の日本軍は壊滅的損害を受ける。将兵1万6千余人のうち76%が死傷病者となり、行方不明者は千人を超えた。彼らは捕虜となって帰国出来なかった。
日本陸軍はこの事件をひた隠しにし、敗北の責任を前線指揮官に押しつけた。生き残った将兵達は中国戦線に送られてしまう、当然帰還出来ない。
当時の作戦指揮官は辻政信少佐で、彼はこの決定的な敗北の責任をとることなく、大本営参謀部作戦課戦力班長となり、南方戦線のガダルカナル戦の作戦を担当するのである。このガダルカナル作戦も失敗に終わり、深刻な損害を被ってしまう。{2008年5月11日朝日新聞}
首都ウランバートルのスフバトール広場に佇むと、この辺り一帯は旧日本軍の捕虜達によって建設されたと云う構築物が今尚、多く残っている。彼らは日本人の誇りとして、決して手を抜く事なく堅牢な、そして美しい建物を造った。モンゴルの人達は、今でもこれらの建築物を尊敬の念を以て使用している。広場前のオペラ劇場は代表的なものの一つである。
(正面右側の建物)
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