紀行
川澄 武雄 | |||||
御殿場の春は少しおそい。 とくにこの春は御殿場や箱根には4月に入っても雪が積もるほど降った。 ウォーク仲間と4月上旬に秩父宮記念公園を訪ねた。母屋の両側にある しだれ桜は7分咲きほどだった。 |
|||||
|
|||||
この公園を訪れたのは二度目である。おととしの秋にFWAの「みかん 狩りウォーク」でこの公園に寄った。その折は東静歩こう会の味岡さんに 案内して戴いた。モミジバフウの大木の下に、大きくてきれいな落ち葉が 絨毯をひろげたように散っていた。 |
|||||
|
|||||
案内によると 秩父宮両殿下は昭和16年〜27年の間、戦時を挟み御殿場で生活された。 殿下の結核療養のためである。秩父宮記念公園は両殿下が住まわれた 別邸を、平成7年に亡くなられた勢津子妃殿下が御殿場市に遺贈され、 御殿場市が整備、平成15年春にオープンした公園である。 敷地面積1万8千坪、標高500mの場所は夏も涼しく、この公園の周囲を 1000本の檜林が囲っている。 |
|||||
|
|||||
この公園の魅力は、母屋を中心とした広い庭にある。 母屋は享保8(1723)年に建てられた茅葺きの家を移築したもの。ここで 両殿下が太平洋戦争を挟む10年余を生活された。当時の邸内の様子が そのまゝ保存されており、ゆかりの品々と共に公開されている。四季折々 の庭園風景や、多くの催事はいつ訪れても楽しそうである。この季節は 樹齢120年といわれる大きなしだれ桜が人気である。近くの山々や庭園の 草木の青色のなかで、この桜の艶やかな淡紅色に、しばし見惚れていた。 |
|||||
|
|||||
戦中戦後は皇室といえども食糧事情は多難であったらしい。御殿場別邸も いつしか自給自足の生活となり邸内では戦時下 庭が畑に変わり、その広さ は500坪に及んだといわれる。芋やカボチャを作り、時には皇居へ収穫品を 送られたという話も聞いた。妃殿下も殿下の看病のかたわら農婦姿で農作業 をされたらしい。いまも農機具などが残っている。 終戦の玉音放送を両殿下が聴かれたのも この別邸であった。 |
|||||
|
|||||
秩父宮殿下(1902-53)は昭和天皇の弟だが、その生涯は50年と短い。 青年時代は、様々なスポーツをされて「スポーツの宮様」と称された。 なかでも登山、スキー、ボートを好まれて英国留学中にはマッターホルン に登られたという。邸内に銅像があり、その視線の先には宮様が好んだ 端麗な富士の姿がある。 |
|||||
|
|||||
会津ファンの私には殿下より妃殿下の方に強く惹かれる。 勢津子妃殿下は外交官松平恒雄(旧会津藩主 松平容保の四男)長女である。 明治維新の頃では官軍に対抗する反乱軍の姫君。学習院初等科時代には 御殿場にあった、樺山侯爵別邸で樺山(白洲)正子さんとよく遊んだ話が、 妃殿下の著書「銀のボンボニエール」に書かれていた。 昭和43年に司馬遼太郎の「王城の護衛者」が刊行される。 この小説は会津藩主 松平容保が、徳川慶喜から京都守護職を依頼され、 断り切れずに激動の時代を戦い、終には逆賊の汚名を被る生涯が描かれた 中編小説である。 松平容保は孝明帝に篤く信頼されながらも、薩長の政略に敗れ王政復古 では慶喜にまで見捨てられる。容保への孝明帝の宸翰が二通もあったが、 薩長を中心とする政府軍に朝敵とされた。その様なこともあって、勢津子 妃殿下が皇族との婚儀が決まった時は、会津の人々の喜びは大層なものだ ったという。 この本のあとがきが忘れられない。40年ほど前の話であるが・・。 昭和40年秋に「別冊文芸春秋」にこの小説を掲載直後、著者は会津の人 から多くの手紙を受け取った。とりわけ嬉しかったことは、会津松平家の ご当主からのお礼の電話を受けたことだという。その電話のなかで、この ご当主は、秩父宮妃殿下から「すぐお礼の電話をするように」と、そう いわれたことを伝えた。 司馬遼太郎は「本来、小説はそういう機能をはたすべく書かれるものでは ないが、結果として歴史のなかに生きさせられた人の鎮魂のことばたりう ることも、稀有な例としてあるのかもしれない」と書いている。 |
|||||
|
|||||
秩父宮殿下は御病状篤くなり昭和27年1月20日 鵠沼別邸に移居される。 昭和28年1月4日薨去。藤沢市には殿下の名を冠した秩父宮記念体育館が ある。 http://chichibunomiya.jp/ http://memory.wanisan.jp/ |
|||||
|