紀行

走水海岸

 

    川澄 武雄 
近ごろ横須賀を3度ウォークした。三浦半島は古代〜中世〜近代と歴史に富むが、中でも横須賀はロマンの風がいつも吹いていて好きなところだ。
走水海岸
3度のウォーク いずれも走水海岸から、観音崎を抜けた。観音崎は水路が狭く、江戸・東京湾の喉元にあたる。東京湾で、この辺りは最も流れが速く、古来より走水の名がある。走水海岸から房総半島富津を結ぶ海上ルートは古代の官道である。
 
走水神社 日本武尊と弟橘媛が祭神
 
景行天皇の皇子 日本武尊が東征の折に、走水海岸から上総に渡ったという記述が記紀にあり、ロマンティックな伝説が残っている。この東征に、日本武尊は妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)を同行していた。走水海岸では暴風雨に遭い房総に渡れず立ち往生した。そこで弟橘媛はみずから入水して海神の怒りを鎮め、航海の安全を図ったという話である。
 さねさし相武(さがむ)の小野に燃ゆる火の
    火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも     弟橘媛

 
 入水前に弟橘姫が詠んだ別れの歌である。
相模野の燃えさかる火の中で、私の安否を心配して下さった君よ…
この少し前、日本武尊の軍隊は、不意に敵襲をうけ、草に火をつけられ、火に
追われて九死に一生を得た。その場所はどこか・・諸説があるようだが。
その一つ、二宮町の吾妻山公園には、この歌を解説する案内板があった。
吾妻山の名称も「吾妻はや〜(我妻よ〜)」と日本武尊が戦いながら大声で
呼びかけたので、この名がある、とあった。

 唐突だが私はこの歌を読むと、いつも美智子妃を思い出す。美智子妃が
小学生時代に、この歌に想いを寄せられているのである。
1998年9月ニューデリーで開催された第26回国際児童図書評議会(IBBY)で
美智子皇后はVTRによる基調講演をされた。タイトルは「橋をかける −こども時代の読書の思い出− 」(“Building Bridges”)。素晴らしい講演でその後、すえもりブックスから出版された。
「橋をかける」
 この講演の中で、美智子皇后が戦時中、この歌を10歳くらいの時に疎開先で読まれて、「まだ子供であったため、その頃は、全てをぼんやりと感じただけなのですが・・」とその思い出を語っておられる。戦時・疎開先という特殊な状況の中で一人の少女が愛について深く考えていることもさることながら、この少女が長じて皇妃になられた不思議さを思わずにいられない。

この物語は,その美しさの故に私を深くひきつけましたが,同時に,説明のつかない不安感で威圧するものでもありました。古代ではない現代に、海を静めるためや,洪水を防ぐために,一人の人間の生命が求められるとは,まず考えられないことです。ですから,人身御供(ひとみごくう)というそのことを,私が恐れるはずはありません。しかし,弟橘の物語には,何かもっと現代にも通じる象徴性があるように感じられ,そのことが私を息苦しくさせていました。今思うと,それは愛というものが,時として過酷な形をとるものなのかも知れないという,やはり先に述べた愛と犠牲の不可分性への,恐れであり,畏怖(いふ)であったように思います。
さらに皇后はこの講演の中で次のように話されているのも印象的だ。

一国の神話や伝説は,正確な史実ではないかもしれませんが,不思議とその民族を象徴します。これに民話の世界を加えると,それぞれの国や地域の人々が,どのような自然観や生死観を持っていたか,何を尊び,何を恐れたか,どのような想像力を持っていたか等が,うっすらとですが感じられます。

http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/ibby/koen-h10sk-newdelhi.html