紀行文

六本松通り大山道を歩く(1)
2011年2月6日   池 内 淑 皓
関東平野地誌図集成 小田原酒匂川辺り 国土地理院発行の1/25,000地形図
 
 2011年2月22日(火)JR小田原駅から国道1号線(東海道)に向かって歩く。
本町の交差点から旧東海道を東京方面に向かって歩くとすぐ、右手に明治天皇聖蹟の碑が見えてくる、ここは江戸時代「清水本陣」の跡で、明治元年(1868)明治天皇全国行幸の時、行在所となった所。その隣のマンションは、脇本陣跡で古清水旅館があった所、現在二階が資料館となっている。清水氏の先祖は、北条氏の重臣で、北条滅亡の後旅籠を営み、兄は本陣大清水、弟は小清水となり脇本陣を営んで来た。
 大山道はこの先青物町交差点を左折して北に向かう。アーケードのある商店街は現在国際通りと名が付いているが昔の青物町、隣町には台宿町と案内の石標が建っている。
  
明治天皇小田原行在所跡 現国際通り 昔台宿町

 アーケードを抜けると左手に「長安寺」の門が見えてくる。門前の標注に桐大内蔵の墓とあったので導かれて寺内に入る、この人は、関東の女歌舞伎の開祖桐家ゆかりの人で、元禄16年(1703)他界した。この女歌舞伎は明治後期まで続いていたと云う。(市指定文化財)
 道は新幹線をガードで潜り、井細田交差点先で大山道は右に大きく折れる、左に行けば甲州街道である。新編相模風土記稿で井細田の項を見ると、「井細田村江戸より行程二十里、戸数九十、検地は万治二年領主稲葉正則糺す、甲州道村の南北に貫けり、道幅二間半と記述されている。今歩いてきたこの道は、甲州街道の道を兼ねているのだ。
甲州道は御殿場線に沿って御殿場に出て、山中湖から富士吉田方面に到る道筋。
 大山道は酒匂川を飯泉橋で渡る。当然昔は船渡し、橋から上流に向かって400m先の工場前から飯泉観音への道に向かっていた。

長安寺 桐大内蔵の墓 酒匂川 船渡し
 
橋を渡って土手沿いに200mで右に折れる、梅干し工場の前を横切れば勝福寺で、別名「飯泉観音」仁王像の建つ山門前に着く。小田原からここまで8km程寺社を見ながら2時間弱の距離だ。トイレ(東司)もきれい、一呼吸入れよう。
 勝福寺は、奈良時代弓削道鏡が創建したという古いお寺である。仁王門は宝暦八年(1758)造立で、市の重要文化財に指定されているし、手水鉢も重文で、宝永元年(1704)東京神田で作られた青銅製竜頭船の形をしているめずらしい水鉢で、船尾には十一面観音菩薩像が座している。また大銀杏も樹齢700年と云い神奈川名木100選に指定されている古木だ。

 
勝福寺別名「飯泉観音」仁王像の建つ山門 青銅製竜頭船
 
 大山道は山門から東へ(山門に向かって右手)、新装なった土塀に沿って歩く、屈曲の道を抜けると国道255号線の交差点に出る、角は牛丼の吉野屋で良い目印になるだろう。
道は左折して北へ400m程国道沿いに歩き、鴨宮中学校入口信号を右折する。
角の蕎麦屋「好水」敷地のすみに「いいすみ道」への道標がひっそりある。ガードレールに隠れて見落としてしまう程の小ささだ。
鴨宮中学校前を通り、100m程行くと「矢作」に入り、左手に浄土宗「春光院」の甍が見えてくる。
建久九年(1193)鎮西聖光上人が念仏道場として開いた、本尊は木造阿弥陀如来像、静かな寺域に山門や鐘楼がピッタリ合う寺だ。
大山道は曲がりくねりながら Y 字路の矢作交差点に出る。交差点を右に曲がるとすぐ酒匂堰を万国橋で渡り、「中里」に向かう。
 新編相模風土記稿で「矢作村」を引いてみると、「村西春光院の傍らに、古へ矢師住せしより村名起れりと云、江戸より行程二十里、村内四条の往還を通ぜり、富士道は村の中間を通ず、この道西に分かれて小田原道となり、東に分かれて大山道となる、酒匂道は酒匂堰に在、十文字往来とも云、以上三路各巾二間、巡礼道は南境を通ず巾五尺」と記述されている。
今まで歩いて来た道を小田原道、Y字路を左に行けば富士道、右折して行けば大山道となる。
 東に300mで中里信号を左折する、左角に摩滅した双対道祖神と庚申塔があるが文字は最早判読出来ない。
 
「いいすみ道」への道標 浄土宗「春光院」
 
 「下堀」を通過して小田原厚木高速道路手前に「満福寺」が在る、今まで日本のお寺を数え切れないほど見てきたが、この寺の鐘楼と鐘が韓国製なのだ。寺は建長六年(1254)創建になる東寺真言宗の古刹なのだが、二十二世慈弁和尚の説明によると、この鐘は「離合の鐘」と云い、韓国は新羅の時代から造鐘の歴史がある、日本の過去を許し、新しい和合を信じると言う大きな精神を大切に思うからだと云う。
私も韓国へは6〜7回訪れているが、日本の寺域では何とも不似合いな情景に驚いた。
 大山道は小田厚高速道路を潜り高田の村落に入る。
新編相模風土記稿によると「高田」は古き地名にして和名抄に当郡の名見えたり、と記述されているとおり、高田公民館一帯は弥生時代後期から古墳時代にかけての大規模な集落のあった所で、東大寺の正倉院には「高田郷」の地名が確認出来る文書があり、当時この辺りの中心的役割を果たしていたと云う。今ここには若宮八幡宮が建ち、境内一帯が文化財として保存されている。

                                                         
「満福寺」の「離合の鐘」 「高田郷」の古墳
 高速道路を潜った先、T字路に「西国 四国 坂東 秩父 供養塔」と掘られた石標がさりげなく置いてある。
大山道はこの先千代の交差点信号手前の路地を右折し300m程で御殿場線踏切を渡り、梅の里「曽我別所の梅林」に出る。梅の咲く季節であれば露天も出て観梅の人達で大にぎわいである。幸い今日は梅が満開で快晴、富士もよく見える。
道案内板に従って線路沿いに700m程行くと、小田原梅の里センターがあるから、丁度昼時であればセンター内でお弁当が広げられる。センターの隣は御殿場線下曽我駅だ。飯泉観音から6km、社寺仏閣を見ながら1時間30分程であった。
 
梅の里「曽我別所の梅林」