紀行文

六本松通り大山道を歩く(1)
2011年3月20日   池 内 淑 皓
 小田原市梅の里センターで食事休憩が済んだら、元の道に戻って大山道を歩く。
JR御殿場線踏切まで戻って、下曽我小学校前を通り、大山道は県道72号線に突き当たる。横断歩道信号機に従って渡り、20m程行くと石仏群が見えてくる。大きな石碑は「唯念行者の名号碑」で、南無阿弥陀仏と太く陰刻されている。
 唯念行者は(1789〜1880)相模地方の各地に念仏講を開き、功徳を説いて多くの信者を指導したと言う。この碑は元治元年(1864)村の信者達によって造立したものである。    
 大山道はきれいに舗装されたみかん農道を北に向かう。
20m程歩くと、右手に昔小学校でおなじみの、二宮金次郎が柴を背負って本を読む姿の石造が見えて来た。説明板には「二宮尊徳遺髪塚」と書き込まれている。
金次郎の母はここの出身で、家の身代が傾いた母の実家を、金次郎が再興したお礼に遺髪をもらい受け、手厚くここに祀った。
 
曽我別所、六本松跡1/25,000 梅満開の曽我梅林
唯念行者の名号碑(大山道は中央の坂道を行く) 六本松跡の碑

大山道は完全舗装されたみかん畑の急坂を上る。30分程の辛抱で標高189mの「六本松跡」に到着する。南は一面のみかん畑の中に富士、箱根が良く見える。六本松跡は峠となっており、西部の足柄平野と大磯、二宮方面に通ずる陶綾丘陵の横断道路として重要な古道であり、西から多くの旅人がここを通り、坂東や奥州へと向かった。また中世小田原北条氏の戦略的重要拠点でもあった。
 道はここから農作業以外は人が通らないようなみかん畑の小径を行く、数分歩くと傍らにお堂に収まった大きな石に出会う「忍石」だ。新編相模風土記稿にある姥石、姫石だろうか、説明板を読むと忍石の説明があり、お堂の中の石は曽我十郎の力石だと解説されている。   
 遙か鎌倉時代、曽我十朗祐成は父の仇討ちに向かう前、恋人の虎御前とここで涙ながらに別れを惜しみ、大磯まで送り届けたと言う。
このあたり一帯は曽我兄弟ゆかりの土地でもあるから、周辺にある旧跡の場所を少し紹介してみよう。
 JR下曽我駅前の道を北に5分程歩くと下曽我駐在所前に出る。案内板に導かれてすぐ高台に「城前寺」(浄土宗稲荷山祐信院)が見えてくる。この高台一帯が曽我氏の館跡で、お寺は曽我兄妹の菩提寺となっている。
 建久四年(1193)源頼朝が行った富士裾野の巻狩りで、五郎、十朗兄弟が父の仇工藤祐経を討った後、叔父の宇佐見禅師が二人の遺骨をこの地に埋め、兄弟の菩提を弔ったと伝える。境内に入ると、幼稚園の裏手に五郎、十朗、父祐信、母満江の供養墓がある。
 先程歩いてきた道の傍らにある銅製の鳥居を潜り、200m程行くと宗我神社に出る。この社は江戸時代曽我郷六村の総鎮守で小田原城の総鬼門鎮護の神社で、社は関東大震災で被災し、その後復興したものである。
 社前の道を「曽我祐信宝篋印塔」の案内に導かれて、山の方に向かって歩く。喘ぐような急坂を10分程行くと、みかん畑の傍らに小田原市重要文化財としてきれいな宝篋印塔がある。説明書を読むと、昔から祐信さんの供養塔と呼ばれ、銘がないので造立年代が不明であるが、関東における基本的な様式を備えた「大宝篋印塔」で神奈川県下では屈指の貴重品と書かれている。
 
「忍石」  五郎、十朗、父祐信、母満江の供養墓 
宗我神社  「曽我祐信宝篋印塔」

さて大山道に戻ろう、忍石から先は歩く人もめっきり減って道も悪くなる、尾根の反対側に出るとここは足柄上郡中井町で、現在この辺り一帯は採石場となり、道は荒れ、夏になると藪に隠れて通行不可となってしまう。
 私達は2010年6月頃から時間を見ては、藪を切り開いて道を通して来た。大山道は採石場の縁に沿って尾根を下る、やがて中井町側のみかん畑の道に合流するから、途中で尾根を外れて左に小径をたどる、この道が大山道で、採石道を通り抜けて県道に出る。
 県道を20m程下ると角に摩滅した石地蔵があるからその路地を下り遠藤の集落に出る。広いバス道は県道中井羽根尾線(709号線)だ。北に向かって200m先で中村川を旭橋で渡るとひょっこり「五所八幡宮」前に出る。
 このお宮、保元二年(1160)比叡山の僧 義円によって創建された。祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后で、源頼朝全国祈願61ヶ所の一つに数えられている。
新編相模風土記稿によれば、五所八幡宮は当村及び近郷十五ヵ村の鎮守なり、豊前の国宇佐にて八幡宮を勧請ありしより、次第を経て第五に当たるが故なりと云い、一は宇佐、二は日光、三は男山、四は鎌倉と書かれている。
 
大山道はこの先藪の中を行く 五所八幡宮

さてここで一休みしよう、先程の旭橋の袂にコンビニがあるから、冷たい物でも暖かい物でも手に入る。六本松からここまで4km少し、途中悪路があったから1時間15分位で達するだろう。疲たり、時間がない場合は、このお宮の前をバスが走っているから二宮、国府津方面に帰る事が出来る。
 大山道は八幡宮の前を通って藤沢川を九所橋(くぞばし)で渡ると石仏群がずらりと並んだ角に出る。庚申塔、地神塔、大山道標、供養塔らが並ぶ。村ではこの辺りに散らばっていたのを大山道の交差点に当たるこの角に集めたと云う。
 不動明王が乗る石標には 「右 大山三里 金目二里」 と彫られている。金目とは井ノ口から県道77号線で平塚に入って南金目にある“かなめ観音”のことで、坂東三十三観音霊場の七番目の札所となっている。飯泉観音でお参りした巡礼者はこの道を通ってかなめ観音に向かったのだ。
 大山道は県道を横切って急な坂を北に向かって上る。日立情報研究所が出来、バスの折り返し停留所も出来た大山道は、コンクリート舗装の道に変わってしまった。急坂を上って10分平坦で小さな交差点に出る。ここが「一本松跡」である。
 昭和初期には形の良い松の古木があり、大山道の休憩所として茶店も置かれ、たいそう賑わったと言う。今この十字路には道標が二基ある。一つは丸石に 「従是 右いいすみ 左小田原」と読める。もう一つは、反対側の崖の上にある。「をだわら道これより三里 此よりいいすみまで二里 かなめまで二里 大山道これより三里」
元禄三年(1690)庚午歳六月吉日 相州西郡中村之内九所村」と記述されている
 道しるべに従えば、真っ直ぐ東に向かえば、五分一から中里を通る二宮通り大山道となり小田原へ、南に山道を行けば北田、小舟を通る羽根尾通り大山道である。
 
九所の石仏群 一本松の道標 「従是 右いいすみ 左小田原」

六本松通り大山道は左折して丘陵の尾根通しに井ノ口に向かう。
みかん畑から農地の中を行く、やがてテルモ工場に沿って坂道を下ると、県道バイパスにぶつかる。電話局前信号を横断して坂道を下れば井ノ口交差点に出る。
 この道は県道秦野二宮線で、南は東海道二宮から始まる二宮通り大山道、道はこの先北へ西大竹、上大槻を経て曾屋河原町に向かい、名古木(ながぬき)から蓑毛に向かう。東へ直進すれば金目を通って平塚に到る。
井ノ口交差点角に公民館があるから、トイレ休憩が出来る。五所八幡宮からここまで3km、1時間強かかる。県道にはバスが通っているから、小田急秦野駅、平塚駅、二宮駅いずれにも帰るには便利だ。
 大山道はここから北に向かう。蓑笠神社を右手に見てゆるやかに坂道を行くと、道の傍らに軽便鉄道上井ノ口停留所跡の案内板がある。説明文を読むと、明治39年(1906)湘南馬車鉄道が吾妻村(二宮)から秦野間9.6kmに軌道を施設したのが始まりで、大山への参拝客、たばこ、木材等を運んでいたと云う、昭和19年役目を終え事業を廃止している。
 
井ノ口の町と大山 秦野(曾屋)への道は軽便の道に変わる

軽便鉄道は大山道に沿って造られていた。道はグリーンテクながい入口でバイパス道路と合流し、東名高速道路を潜り、西大竹に向かう、嶽神社前を過ぎると小田急線ガードを潜り、水無川を越え、国道246号の通る河原町交差点に出る。
 ここからの大山道は蓑毛通り大山道と名が代わって大山を目指すのであるが、本稿はここで筆を折りたい。井ノ口から河原町の交差点まで約4km、1時間程の道程である。
尚小田急秦野駅へは、先程の水無川を新常磐橋で渡って、川原沿いの遊歩道を歩けば10分程で駅前に着く。

                                    完