随筆

津波の記録をとどめる地名を訪ねる

八柳 修之

旧江ノ島道を藤沢から江の島に向かって歩くと泉蔵寺山門の脇に「片瀬浪合市民の家」がある。住所は片瀬二丁目なのだが、浪合とはこの地区の小字のようだ。地名から推察すると、かつてこの辺りまで波が打ち寄せた名残を残しているのではないかと思った。
調べてみると、片瀬地区の小字には、浪合のほか、鯨骨、赤山などが見出される。
「藤沢の地名」(藤沢市発行)によると、「浪合という地名は、かつて大津波が岩屋不動尊のあたりで片瀬川の流れとぶつかり、浪が合わさったところという意味があるといわれている。下諏訪神社の前の池(諏訪池)という大きな池には、むかし大津波に乗って川をさかのぼった鯨がこの池に打ち上げられたという伝承があり、この鯨の骨を埋めたという鯨塚があったそうで、そのため、このあたりは鯨骨と呼ばれ小字名にもなっている。赤山は、現在、湘南白百合学園の辺りで、昔、津波が片瀬村を襲ったときに、この山の中へ逃れた村人の一人が赤ん坊を産んだことからこの地名がつけられたという」

 片瀬地区の小字 (藤沢市発行「藤沢の地名」)


      

    浪 合

旧江ノ島道にある泉蔵寺に隣
接する「片瀬浪合市民の家」の
案内板のみである。こういう形
にせよ、地名が残ることは、よ
いことである。
江ノ島道を離れ、浪合市民の家
の前の道を西へ向かうと、467
号線と交差する所に下諏訪神社
がある。

鯨骨は下諏訪神社の境内近辺だというのでその跡を訪ねてみることにした。
下の図は、昭和37年(1962)版の下諏訪神社周辺の明細地図である。
地図の角にある小林米店は現在も営業していた。ご店主に訊ねてみると、お店は昭和25年から営業しているが、この明細地図に残るお家は、当店と甘糟さん、道路の向かい側の和田葬店くらいなものです。丸根建設の資材置き場は病院とガソリンスタンド、神池は埋め立てられ住宅地、地図に鯨骨とある白地の部分は下諏訪公園と住宅地になっているとのことであった。また、鯨塚の跡を残す碑のようなものは見たことがないとのお話であった。ともあれ跡を訪ねてみることにした。

小林米店 昭和25年創業 下諏訪神社参道 例大祭は8月27日
大鳥居額 昭和15年、一の鳥居建立の際、額は重さ1トン余りもあったので安全のため、新設の台座に奉安し後世に保存するとある。寄進者は甘糟汽船会社
  
神池の跡は住宅地、駐車場となっていた。
  
地図にある「みふじ幼稚園」はすでに無くなっていた。1999年7月の昭文社の地図には記載されているので、その後、廃園となったのであろう。左に入ると下諏訪公園になっていた。鯨骨公園ではまずかったのであろうか。 下諏訪神社の片隅に道祖神があった。鯨塚とは関係ないようだが・・

地名となったのは、いつの時代の津波であったかは定かではないが、かつてこの地域まで津波が襲ってきたことは明らかである。人に語り継がれる津波の強烈の記憶は、地名となって語り継がれている。
藤沢を襲った津波の記録を辿ると、次のとおりである。
慶長19年(1614)  伊豆を震源とする地震 M7.0 津波被害甚大、死者発生
慶長9年(1604)  相模武蔵大地震 M7.9 海浜溢れ溺死者多数
明応7年(1498)   巨大地震M 8.6 津波により大仏殿崩壊、溺死者200余名
          明応地震 富士山に噴煙見ゆ
永享元年(1433)   関東大地震M 7.1  震源相模湾 鎌倉被害大 余震20日続く
(この項の出典は「鵠沼地区災害史年表」から摘記しました)