池 内 淑 皓
二子宿
 二子宿―宮前平駅
 今回は川崎市二子宿から歩きます。                                      
二子宿へ行くには田園都市線の二子新地駅で下車します。改札口を出たら左手に50m歩くと、矢倉沢往還大山街道の二子宿に出る。江戸時代宿は西に向かって下宿、中宿、上宿から成り立っていた。
 二子の名の起こりは、江戸時代この土地の南にある坂戸村の近くに二つの塚があったので地名の由来となった。塚の前は古奥州街道であったが、矢倉沢往還が開かれてから廃道になったと言う。二子塚の土はかまどを作るのに良いと言われ、古くから掘りとられ、明治時代に入って掘り尽くされてしまった。その時に石棺、刀剣、埴輪が出土していることから、時の権力者の古墳ではないかと考えられている。

 街道の裏手、欅の杜が二子神社(現小杉神社)である。創建は寛永18年(1641)で、当時は行き交う船人で賑わった。今は天保10年(1839)の手水鉢が境内の片隅に寂しく打ち捨てられてある。
 また、境内の傍らに昭和37年岡本太郎作「誇り」と名付けられた岡本かの子文学碑がある。鶴が天空に羽ばたいてゆく姿の彫刻、台座は丹下健三の設計である。
 街道を西に進めると、宿のはずれに江戸時代幕府諸大名のご用商人として巨万の財をなした大貫家(大和屋)があった。平成4年までは広大な敷地に大貫病院を経営しており、当時の土蔵が市の文化財としてあったが、老朽化のため撤去され、病院も後継ぎが無く廃業となってしまった。
平成15年3月訪ねた時は、跡地にマンションが建設されていた。敷地の片隅にひとかかえの曙杉がわずかにかつての大貫家の繁栄の跡を偲ばせてくれる。
 大貫家は大正期の女流小説家岡本かの子の実家であり、画家岡本太郎は長男である。太郎は明治44年2月ここで生まれた。街道前の光明寺には大貫家の墓がある
二子宿は400m程で終わり、つづけて溝口宿となる。

 溝口宿は江戸を出て初めての大きな宿場で、寛文9年(1669)二子宿と共に矢倉沢往還の伝馬宿
タナカヤ呉服店
に定められた。また江戸へ運ぶ物資の重要な集積地でもあった。
今は町並みもすっかり変わり、昔の面影はほとんどないが、街道に面してタナカヤ呉服店、灰吹屋薬局の蔵に当時の面影がかすかに残っている。
 大山街道は光明寺を過ぎ、高津図書館前を通り、土蔵造りのタナカヤ呉服店前に出る。この呉服店は明治44年に建てられたが、扇垂木造りの出窓が有名。
府中街道の高津交差点を過ぎた所に、江戸時代から続く灰吹屋薬局の蔵づくりの店跡がある。昭和35年までは店として使用していたが、今は高津交差点の川崎寄り50mの場所に、名前も灰吹屋薬局としてお店を開いている。ここの二代目主人は、俳人として有名で、文政2年(1819)松尾芭蕉の句「世を旅に代かく小田のゆきもどり」を自然石に彫らせた。現在宋隆寺の境内にある。
 旧府中街道との交差点角に「大山街道ふるさと館」が平成4年に生まれた。矢倉沢往還の文物が展示されているので是非立ち寄って欲しい。ここには往還の道筋が掲示されている。

大山道標
そのふるさと館入り口に大山道のしるべがある。旧府中街道の角にあったもので「東青山道、西大山道、南川崎道、北高幡不動尊道、文政12年3月(1829)吉日」と読める。
 西へ歩を進めると二ケ領用水堀に架かる大石橋に出る。この用水も前回記述した六郷用水と同時に、代官小泉次大夫の手で慶長16年(1611)完成した。総延長32q、現在でも久地にある分量樋(国指定文化財)で分割され流れている。二ケ領とは川崎領と稲毛領にまたがっていたことに由来する。
 江戸は職人の町である。江戸前鮨は江戸湾で採れた新鮮な魚貝類を、一口でパクリと頬張れる大きさの「しゃり」に乗せて食べる。しゃりは、ここ二ケ領水域でとれる「幸蔵米」を最高とした。
ちなみに、鉄火巻きは鉄火場で飯粒が花札にくっつかない様にのりを巻いたのが語源である。

 街道は大石橋を渡る。左手に甲州屋人形店が見えてきた。武田信玄の家臣であった多田家は江戸時代前期にこの地で人形造りをしていたと言う。
 更に西へ道をたどると、右手に創業は寛永年間の「亀屋」と言う旅館があった。平成13年までは5階建てビルの結婚式場亀屋会館として営業していたが、同年10月閉鎖された。平成17年10月マンションが建設中。かつて国木田独歩が小説「忘れ得ぬ人々」のなかでこの宿を記述している。この独歩の文学碑が旅館の前にあったが、今は高津図書館の前庭に移設された。碑文は島崎藤村の筆による。
せまい宿場の中には、村の鎮守さま「溝の口神社」、室町時代からの日蓮宗「宋隆寺」(建物は新しい)などがある。
 大山街道は程なく栄橋交差点に出る。ここにある橋は昔馬上免橋と言った。私が調査した平成4年9月には平瀬川に六ケ村堀が合流していた。当時の木の橋杭が今説明板と共に交差点の傍らに展示されている。川は暗渠となって水面は見えない。
江戸時代はこの辺りの地名を馬上免と言った。大石橋を修理しているとき、旅人が工事監督の役人の前で馬を降りて徒歩で通過しているのを見て、役人は馬に乗ったまま通過を許してくれたので地名となったと言う。

 JRの踏切を渡れば溝の口片町交差点に出て宿場の外れとなる。この角に小屋掛けされ大事にされている「青面金剛像」がある。「東江戸道 西大山至 南加奈川至 文化3年寅(1806)」と彫られている。昔からこの交差点は要衝の地であった事が分かる。
 さて、二子からぶらぶら歩いて1時間程。この先街道には食事するに適当なお店がないので、この辺りで11時を過ぎていれば昼食にしたい。

 街道は交差点を横切って、下作延郵便局前を通り、200m歩いたら左手の急坂を上る事になるが、上り口に大山道の案内板が掲げられている。この坂を「根もじり坂」と言う。
坂を上り詰めると左手に笹の原「子育て地蔵」が見えてくる。弘化4年(1847)の地蔵が安置されている。昔西国巡礼から戻った村人が子を授かったお礼に建てたとつたえられている。最近下作延地区と末長地区折半で地蔵小屋が新しくなった。
笹の原「子育て地蔵」 馬絹の大塚
 静かな住宅地の間を10分程歩く、やがて国道246号を横断歩道橋で越え斜めに西へ細い道をたどると、左手に馬絹の大塚が見えてくる。(現宮前区宮崎)高さ6m程の塚で、一部民家の尾幡家の庭先にもなっているが塚に登る階段がついている。頂上には「馬絹大塚供養塔」の碑文がある。
 大山街道には前述の二子塚、馬絹、相模大塚(相鉄かしわ台駅そば)の塚がある。諸説あるが古墳時代に戦いで敗れた死者を葬った古墳塚ではないかと言われている。(市の史跡)
 街道は真っ直ぐ進む。坂を下り緩やかに上り詰めるとスーパー、ママストアの前にでるから、Y字路を左折し、また緩やかに坂を下れば田園都市線の宮前平駅前に出る。溝の口からここまで約4km、1時間半もあれば充分だろう。

 駅前に八幡神社がある。正徳4年10月(1714)の石仏があるから社は古い。文政11年(1828)馬絹村と土橋村で作った105段もある急な石段のてっぺんの社殿には、両村の二つのご神体がある。社の入り口付近の鳥居は馬絹村、社殿は土橋村に属していたからだという。馬絹の地名は、昔このあたりが牧野であった事から名前となっている。有馬の地名も残っている事から、ここで馬が飼われていたに違いない。
 土橋の地名は、この村に流れる矢上川に頼朝が上州出兵の折、土橋をかけさせ通過したので村名となっていると言う。
日はまだ高いが、区切りが良いので今日はこの辺で帰ろう。