紀行文

スリランカを歩く(1)
2011年12月08
池 内 淑 皓
発端
 2011年3月11日未曾有の大地震が東北地方を襲った、直後の津波で沿岸地方は壊滅的な打撃を被ったが、その頂点は東京電力福島第一原子力発電所の崩壊であった。放射線は四方に飛散し、欧米各国の大使館員は日本を離れて行く。
その最中、敢然と外国から日本へ赴任してきた大使がいる、「スリランカ大使 カランナゴタ氏」である。
彼は元海軍司令官で、2004年スマトラ沖地震による津波で同国が大被害を受けた際、日本がいち早く援助をした。
彼は、「あのとき我が国をいち早く助けてくれた友人の日本に、出来る限りの協力をしたい」と。雪が舞う凍つく寒さの中で飲んだ紅茶の温かさが、心に浸みると現地の人達は異口同音に云う。
私は急にこの国に興味を持った。調べて見ると、第二次世界大戦の敗戦で中国と共に、日本に対して戦後賠償を請求しなかった数少ない国の一つであった。旧日本軍は、ゼロ戦のタイヤのゴムを必要とし、セイロンの豊かな紅茶畑を潰してゴム林にしてしまったのだ。
   
スリランカの地図 地球の歩き方「スリランカ」(ダイヤモンド社刊)
カランナゴダ大使着任の記事
2011/3/31朝日新聞     
コロンボの町 
ここもタイ同様スリーウイラー(トウクトク)が健在
 1951年9月サンフランシスコ対日講話会議に、セイロン代表として出席したらのジャヤワルダナ大蔵大臣(当時)は「憎悪は憎悪によって止むことなく、愛によって止む」と仏陀の言葉を引用して対日賠償請求権を放棄したのである。
 現在スリランカの首都は「コロンボ」ではなく、1985年彼の名を冠した「スリー・ジャヤワルダナプラ」と言う町に遷都した。コロンボから13km離れている。
これらの言葉だけでいても立っても居られず、スリランカへ旅立つ準備を始めた。いつたいどの様な国なのだろうか、好奇心で心がワクワクしてくる、古希を目の前にして時間は十分ある。
セイロンと言う名はヨーロッパ人が勝手に付けた名前で、母国語では、「スリ=光輝く ランカ=島」と呼ぶ由緒ある名前なのだ。ジパング(黄金の島)、ジャパン、日本と同じ。
 まず地球の歩き方「スリランカ」(ダイヤモンド社刊)を入手し、航空券の調査から始める。この本は旅をするための重要なガイドブックであり、歩くための羅針盤の役目をする旅行者の必携品なのだ。
アジアへの一人旅では、航空券の価格が旅の予算の半分を占めてしまい、旅の成否も航空券にかかっているから、成功の秘訣は安くて便利で、安心出来る航空会社を選ぶ事だ。
 北海道の80%程の広さのこの国は、インドのマンゴーと言われるくらい小さな国にも関わらず、日本へ週3便飛行機を飛ばしている。スリランカ航空は毎週土曜日には、成田からコロンボまで直行便があるのでそれを利用する。
 パソコンのホームページからチケットの種類を調べると、7日、14日、21日とあり、あとはオープンチケットとなり割高となる。ビザは観光であれば日本人に対して30日間不要であるから、最長の21日間チケットを入手する事にした。パソコンから申し込んだら、すぐ返事が来た。「私達は国土交通省のご指示により適正価格の航空券しか売れません」、ディスカウントチケットをお望みでしたら、旅行会社から入手してくださいとの返事が来て、親切に旅行会社まで教えてくれた(株ワコーインターナショナル(03-2258-5251))。早速ワコーのホームページから購入を決めた。
 スリランカでは乾季と言われる7月21日(土)出発で、8月13日成田着の22日間のチケット。4月に申し込むと空港使用料、燃料付加税、出入国税含めて131,900円であった。これで旅の足は確保された。
次は宿屋、異境の地に初めて降り立つのは不安が心の中を支配するから、日本でコロンボのホテルをインターネットから予約する。列車の旅をしたいから、国鉄コロンボ駅近くのCity Hotelを予約した。これでOK。あとは旅をどう組み立てるかだ。
 21日間のスリランカをどう歩くか、癒しのアーユーベーダ、海辺で過ごす、世界遺産を巡る、地方を観光する等いろいろあるが、私は山岳列車の旅を楽しみたい、世界遺産(この国には7つの遺産が存在する)を巡りながら、セイロン紅茶で有名な茶畑を見たい。そして現地の人と出来るだけ接触してみたい。この様な願望を心の中に暖めながら旅を組み立てた。
 滞在費は、宿泊代を入れて一日平均約6千円とし、20日間で12万円の予算。持ち物はリックサック一つで出発する。スーツケースは歩くのに邪魔になるからだ、衣類はウオシュアンドウエア、汚れたらホテルで洗濯すればよい。
ではスリランカに向けて出発。
(次へ)