西行が歩いた藤沢のみち 

その一

八柳修之
 
当協会の24年度例会計画、鎌倉道を歩く、横須賀水道みちを歩くという企画は好評のようだ。いずれもコースに特に見るべき所はないと思われるが、タイムスリップし何かしら往時を偲ぶ縁がないか探索する楽しみがあるからであろう。
藤沢は古くから鎌倉道、東海道の宿場町、大山道、江の島道の交通の要路として多くの人々が往来した。西行もその一人であった。ここで、西行がどのような道を歩いたか。推理してみたい。例会のコース設計の参考になるかもしれない。(参考にした資料・文献は最終回 末尾にまとめて記載します)

西行(1118〜1190)、佐藤義清(のりきよ)は18歳で鳥羽院に仕えた北面の武士、大河ドラマ「平清盛」では清盛の友人として藤木直人が演じている。義清もイケメンだったらしい。
23歳で出家、一般には漂白、隠遁の歌人として知られている。

西行戻り松(片瀬三丁目10−15)
西行像 MOA美術館所蔵
 
 その西行、藤沢を歩いた痕跡として、江の島道に杉山検校が建てた江ノ島道標、西行戻り松が片瀬3丁目、ランドリーの脇にある。以前は本蓮寺前にあったものが移設されたという。
藤沢市教育委員会の建てた案内板に、その由来についてこう述べている。
「西行が東国へ下るとき、鎌倉への通りすがりに道端の松の枝振りに目をとめ、都恋しさのあまり、都の方を見返って、その枝を西の方へねじ曲げたからといわれています。また西行がこの松の下で背負籠して鎌を持った子供を見て、どこへ行くかと問いかけると、「冬まきて夏枯草を刈りに行く」と答えたので、その意味がわからず、しばし子供の後姿を見返っていたことから、西行見返り松とも呼ばれるようになったそうです」とあります。

西行が東国へ下ったのは、重源上人に頼まれて、遠縁にあたる平泉の藤原秀衡に東大寺再建のために砂金の勧進を願うことでした。なんと西行69歳のときの旅でした。因みに京都から平泉までの距離は在来線で966kmもあります。
文治2年(1186) 8月15日、頼朝の願いで鎌倉に立ち寄ったという記録が「吾妻鏡」に残されているという。頼朝からお礼に銀の猫をもらったが、館を出た所で通りすがりの子供にくれてやってしまったという話は、西行の無欲ぶりが窺われる話としても知られています。
もう一つ、西行が藤沢の地に足跡の残した証拠として、鎌倉時代の書かれたという「西行物語」に

     「相模国大庭といふ所、砥上原(とがみはら)を過ぐるに、野原の霧の隙(ひま)より、
     風に誘はれ、鹿の鳴く声聞ければ、
        しばまどふ 葛のしげみに 妻籠めて 砥上原に 雄鹿鳴くなり
     その夕暮方(がた)に沢辺の鴫、飛び立つ音しければ、
       心なきに 身にもあわれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ


砥上原の範囲については大きく2説ある。東の境は鎌倉郡と高座郡の境である境川とする点では同じであるが、西の境については相模川までするというものと、引地川までするものがある。前掲「西行物語」桑原博史著(全訳注、講談社学術文庫)は、「相模国大庭といふ所、砥上原」について、「現在の藤沢市鵠沼付近、片瀬川西岸の原野」と断言している。

第二首は有名な歌で、高校の国語の教科書にもあったので、ご存知の方も多かろう。最近まで、大磯に「鴫立庵」があることから、この歌が詠まれた地は大磯であったと思っていた。
砥上原の範囲を相模川まで広げれば、おかしくはない。さらに江戸時代、崇雪という俳人が西行を慕って大磯鴫立沢のほとりに草庵を建てたことから、西行が大磯でこの歌を詠んだと一般には思われている。既成事実が先行するが、藤沢市民としては鵠沼説を採りたい。
鵠はククヒと発音し、白鳥の古名であり、沼が多く、白鳥が沢山飛来したのが地名の起こりといわれる。奈良・平安時代〜鎌倉時代の地形図からみても鵠沼地域は砂質低湿地となっており鴫立沢は鵠沼の方が、蓋然性が高い。

さて、西行は境川(昔は片瀬川、固瀬川とも)をどの地点から渡ったであろうか。
現在、境川の流れを見ると、満潮時には境川と柏尾川の合流点である新川名橋辺りまで海水が遡り流れが停滞し、ボラが飛び上がるのを見ることができる。
境川の河面の高さは、ほとんど海面の高度とは変わらない。地学でいう感潮(かんちょう河川である。境川を使った舟の運搬も行われ大船まで荷を運んでいた。流れの停滞や洪水で広い沼沢地ができ、その名残として僅かに蓮池が残っている。

西行がこの地にやってきたのは8月、渇水期で馬で渡ったかもしれないが、舟で渡ったと仮定すれば、少なくとも次の3か所の地点が考えられる。
現在の上山本橋付近、荒屋敷橋付近、現在ポンプ場にあったという紋十郎河岸付近である。
川を渡った場所で次の行き先に大きくかかわってくる。(続く)