西行が歩いた藤沢のみち 

その二

八柳修之
 
辻堂の鎌倉道

鎌倉幕府の成立(1192)により鎌倉が東国の政治の中心となってから、各地と鎌倉とを結ぶ交通路、いわゆる鎌倉道ができた。東海道の往来も多くなり、西行も足柄を越え鎌倉へやって来た。鎌倉時代、辻堂と茅ヶ崎東部沿岸を含む広い地域は八的ヶ原(やまとがはら)、後に八松ヶ原(やつまつがはら)と呼ばれていた。京より東下りした場合、八松ヶ原、砥上ヶ原を通ることなる。
辻堂の集落の形成については、建久年間(1190〜1198)、西国の落武者17名が住み着いたという伝承がある。「源平盛衰記」には、寿永2年(1183)、佐々木四郎高綱が木曽義仲追討のために上洛の折に「十七騎にて稲村、腰越、片瀬川、砥上が原、八松原駆通し・・・」と記されていること。文治元年(1186)に源頼朝が駅路の法を定めたことによって、鎌倉街道と呼ばれるようになった。

辻堂駅南口から鎌倉街道と呼ばれる道が引地川を渡り、藤沢市鵠沼運動公園辺りまで残っている。ともあれ、歩いてみた。

      

 スタートは辻堂駅南口、駅を出てほどない所に「源頼朝落馬地」(辻堂二丁目17−1)にある。建久9年(1198)12月「頼朝が相模川の橋供養に出かけたとき八的ヶ原で、亡ぼされた源氏義広、義経、行家己下(いか)の人々の怨霊現じて、将軍に目を見合わせ」その瞬間、頼朝が落馬したと記されている。真偽はともかく、相模川に橋が架かっていたこと、鎌倉から通じる道がすでにあったことが分かる。

熊の森権現という所に西行の歌碑があるというので、行ってみることにした。簡単に見つかるかと思ったが、探しあてた先は浜見山通り酒井医院の横、なんと森の権現は跡形もなくマンションの入口にあった。
「柴松のくずのしげみにつまこめてとなみが原に牡鹿鳴くなり」
元の碑は風化して、平成8年に複製が建てられたものであった。元の碑は建立者の名前がないが、江戸時代に建てたものとされている。
また西行が腰かけたと伝えられる「根上がりの松」と呼ばれた大松が昭和31年まであったという。歌碑の場所で歌が詠まれたとは限らない。これをもって西行が、ここを通ったとは断定できないが、通ったとすれば、砥上ヶ原の範囲は引地川以西に及んでいたことになる。


西行の碑から、鎌倉街道に出る道があるが駅まで戻  り、地下道横の地蔵堂前から鎌倉街道を歩く。道幅は狭く古い商店街、辻堂郵便局、西町公民館、三つ又、白山神社、ふじさわの景観(辻堂地区10選―9)に選ばれた名家が立ち並ぶ風情のあるまち並みを通り、辻堂四つ角に出る。辻を右に曲がると宝泉寺、諏訪神社がある。昔の辻堂村はこの四つ角を中心に、東町、西町、南町、北町の集落が形成され、ここから四ツ谷大山道、藤沢宿、鎌倉道へと伸びていた。
宝泉寺は建久年間(1190〜1199)頃、源頼朝の勧請により創建され、また諏訪神社は、平治年間(1159〜1160)の創建と伝えられるので、西行は諏訪訪神社に立ち寄ったかもしれない。

先を進むと、東町町内会館に隣接して小さな八松稲荷神社がある。創建は「皇国地誌」に「里伝によると文治年間の勧請」とあるという。「源平盛衰記」に八松ヶ原という記述があるという。道は堂面という湘南新道と交差する所に至る。横断して大平台住宅地の中を直進し引地川右岸、大平橋と作橋の間に出る。

現在の作橋の位置は鎌倉時代にあった作橋とは位置が違うそうだ。引地川の流路は度々の洪水によって大きく変動している。しかし、農民が移動のため作った橋、作橋はあったようだと、鵠沼を語る会の古老の話である。(こちらも古老なのだが・・・)時代は下って杉山検校が建てた江ノ島道道標が鵠沼運動公園付近にあり、道路工事の際、近くの民家の邸内に移されたという。この地点まで、鎌倉道があったことは間違いないようだ。川を渡ってから先の道、どこをどう通ったかは、風による砂丘の移動や洪水による引地川流路の移動=氾濫原の移動による不安定要素が大きいから分からないという。浜道と称する茅ヶ崎方面から浜沿いの道があったとされるから、その道を通ったかもしれないと古老は推測していた。
引地川左岸鵠沼橋の手前に引地川改修記功碑(昭和9年銘)があり、蛇行していた川を直流に変えたという記録がある。(その2完)