西行が歩いた藤沢のみち 

その三

八柳修之
 
砥上ヶ原(鵠沼郷)の道

西行は辻堂からの鎌倉道を歩かず、さらに東海道を東に向かい鵠沼郷に入り南下して鎌倉へ向かったことが考えられる。以下、全くの素人が推理を楽しんでいる事をお断りしておく。

鵠沼と聞けば、一般には湘南海岸、かつて別荘地、ハイソな人が住んでいる所という印象が強い。その人々が住む南西部の鵠沼は開発されてから僅か110年余の歴史しかない。
しかし、北西部の鵠沼神明、本鵠沼は約1300年もの歴史がある。烏森皇大神宮(鵠沼神明社とも)を中心に、天平時代(735年頃)には高座郡土甘郷(たかくらごうりとがみごう)と呼ばれ、戸数50戸の集落があったという記録がある。
皇大神宮は天長9年(832)に創立され、延喜年間(901〜23)相模国土甘郷の総社、長治元年(1104)には伊勢神宮大庭御厨の鎮守となった。神社を中心に集落も形成されていたであろうから、西行は皇大神宮に立ち寄ったものと思われる。
皇大神宮 例大祭8月17日 宮前、上村、清水、宿庭、刈田、大東、仲東、原、堀川の9つの集落から人形山車が繰り出す。
 
下の図は、境川と引地川の旧河道と氾濫原、砥上ヶ原の道の推定図(藤沢市教育委員会「大庭御厨の景観」)である。
境川は柏尾川と合流し大きく蛇行し、池、氾濫原となっている。ごく最近までこの地区は川袋と呼ばれていたように川が袋のような形に土地を取り巻いている。池と広い氾濫原の湿地は、鴫や白鳥、水鳥の天国であったろう。
この氾濫原を避けて、砥上ヶ原を通る道はA、B、Cの三つの道が推定されている。
私は東海道から皇大神宮に入ってのち、東海道線の一本松の踏切を横断して、遊行寺から来る江ノ島道と石上の渡しで合流する江ノ島道脇道(裏道とも)であると考えていた。(江ノ島道脇道の道筋は、HP「四季の道」に書いたので省略する)
しかし江ノ島道脇道ではなくAルートがあったのである。江ノ島道脇道と一致するのは図にあるレジェンデ・オグラ(アパート)以降の道である。
確かに西行の時代にはいわゆる江ノ島道はなかったと思われる。もちろん、農民が行き来する道はあったであろうが、多くの人々が通るようになったのは、江戸時代になってから大山詣、江ノ島詣が盛んになってからのことであろう。
 下の図は学者先生が推定した地図(「大庭御厨の景観]藤沢市教育委員会」である。AルートのほかB、Cルートがあるが、最も西行が歩いた可能性があるのはAルート、石上の渡しを通るルートであろう。Aルートから歩いてみよう。(続)