その四
八柳修之 |
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A 東海道線「学校踏切」から石上の渡しまで |
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その三の推定された砥上ヶ原の道に現在の地図と重ね合わせて見たのが下図である。ほとんど現在の道と重ねあう。この地図では直線になっている所の多いように見えるが、実際歩いてみるとくねくねしている道が多い。 では推定路A から順次歩いて見よう。 |
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皇大神宮鳥居から出て、左、日本精工フェンスに沿って進むと東海道線沿いの道に出る。藤沢駅方面の「学校踏切」を渡り、すぐマンションの角を左折、湘南新道(30号線)高架橋下を抜けるとJR住宅である。住宅の縁を進み、道祖神と精肉店の間の道を進む。ほどなく二又になるが、左側の道を進む。 ここから先は道幅が狭くなり、くねくねした昔からあったことをうかがわせる道を進む。賽の神という道祖神(本鵠沼1−12−29)の説明にはこの道が鎌倉道であったことが記されている。 第39号緑の広場には貸農園もあり松の木も多く残る。 小田急 藤沢3号踏切は海抜11.6m 渡ると鵠沼橘2丁目となる。 くねくねした道はさらに続きビニールハウスも見られる。やがて三叉路に出る。目印は右側にあるレジェンデ・オグラ(アパート)。突き当りを右に曲がり、左、一本松から来た江ノ島道脇道と合流、道幅も広くなり家々の雰囲気も違って来る。進むと橘郵便局。 ここから先は直進し最初の信号を左折すると石上駅、道なりに進むと秩父宮体育館、上山本橋付近に出る。石上の渡しがあったとされる地点である。 奥田公園はウォーキングの集合場所として利用されるから、ほとんどに人はこの周辺の土地勘がある。奥田公園、市民会館、秩父宮体育館、消防署、ヨーカードーがあった辺りはごく最近まで水田があった所で埋め立て地である。 石上の渡し(川袋の渡しとも) 石上の渡しがあったことが確認されているのは、天正期(1573〜)であり、それ以前のことは分かっていない。しかし、皇大神宮からAルートでも一本松を通る江ノ島道脇道でも南下すれば、この石上の地点に行き着く。そこから先は、広い川袋の大湿地である。川袋の縁にそって大きく迂回した後、境川を渡るであろうか。後に石上の渡しが、上山本橋付近から発着していたが、渡しがなくともこの地点が渡捗に最適地であったと思われる。 これから先は川袋の大湿地、日は富士山の右側から沈む、ときは秋の夕暮 こころなき 身にもあわれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮 西行にとって、勧進の旅は気の進まぬ旅、頼朝からは会って話を聞きたいとの要請があったものの、西行は会いたくなかったとする辻 邦生の西行花伝の話も頷ける。 渡しによらずとも、境川(片瀬川)を徒渉することも出来たようだ。西行より少しあと、鎌倉に下向し源実朝と会見した鴨長明は、砥上ヶ原で次の歌を詠んでいる。 浦近き 砥上ヶ原に 駒とめて 固瀬川の 潮干をぞ待つ 干潮を待ち、馬で片瀬川を渡れたことを証明している。 上山本橋を渡り、ミネベア敷地の中に庚申塔がある。半分、埋もれて判読しがたいが左ふじさわという文字が読み取れる。このあと江ノ島道は続く。(続く) |