西行が歩いた藤沢のみち 

その五

八柳修之
 
Bルート(くげぬま37号踏切からY氏宅まで)

                        
    
 往時、皇大神宮は大庭御厨管理の中心地であり、御厨の貢物が集められ、引地川を下って、江ノ島で外洋用の船に積み替えられ伊勢に送られたのではないかと考えられている。その三の地図で見られるごとく、高山橋の手前のヤクルトの辺りが舟積場、そこから参道が真直ぐ続いている。宿庭(しゅくば)という地名もあることが裏付けともなっている。

東海道、引地橋(仮橋であった)を渡ったあと皇大神宮へは、西行当時はどの道を歩いたか。現在の道は、引地橋から川沿い、バス停一中入口、湘南高校入口から入る3ルートがある。ともあれ、皇大神宮を出たあと、くげぬまみち37号踏切を渡るBルート、鵠沼第2踏切を渡るCルートを歩いてみる。
BとCとの間はわずか30mくらいである。こんな短い間隔にあるのは奇異であるが、いずれも昔からの道であったことの証明にもなるのではないかと思われる。

Bルート くげぬまみち37号踏切を渡ると、前方右手に真言宗普門寺(本鵠沼5−4−1)がある。もと藤沢宿感応院の末寺で本尊は不動明王、享禄元年(1528)良元が花水川の左右1kmに位置していた唐ヶ原(もろこしがはら)に創建し、元和3年(1617)、現在の場所に再開基した。境内には47番と48番の弘法大師石像がある。
御詠歌に たび衣 はるばるここに くげぬまの 普き門に来る うれしさ と詠まれている。


普門寺前から鵠沼小学校正門前を直進し、湘南新道(30号線)ガストの横に出る。信号を渡り左「増田屋」、右マンションの間の道を直進する。マンションの地主さんは旧家のようで大きな石灯篭、保存したい石蔵がある。以後、地図上では直線であるが、くねくねした道が続く。






左側に立っているいるのが記念碑
やがて十字路、角に新道記念碑「昭和20年5月、一本松踏切より南325間6丁、右旧道100間拡張工事寄付者連名・・・」 終戦直前の工事、老人や婦人の力によるものであろうか、終戦直前に建てられた碑にしては立派である。突き当りが畑、ブルーシートで覆われていたから家が建つのであろう。
右折して直ぐ左折すると小田急線鵠沼中学踏切である。





              
中学グランド横を直進すると二又になるが、右へ道なりに進む、途中、バス道と交差するが、そのまま進む。古くからの道の趣は全くない。やがて、塀の上に有刺鉄線を張り巡らしたY氏大邸宅がある。(桜が岡1丁目8).このY氏宅はYR湘南海岸コースのランドマークともなっている。Y氏宅の角を左に曲がると蓮池に出る。





B.C合流道1本


Y氏宅はBルートとCルートとの合流点である。その五では、CルートからY氏宅までの道と、それ以降の道について歩いてみたい。(続く)