西行が歩いた藤沢のみち 

その六

八柳修之
 
鵠沼第2踏切から境橋付近まで
Cルート 鵠沼第2踏切を渡り道なりに進む。アパートが多い。突き当り横田製麺所を左、ミラー
斉藤家長屋門
があり右へ進むと斉藤家長屋門がある。
斉藤家は鎌倉時代に三河から鵠沼に移り住み、代々名主を努めた。江戸時代の砲術家江川太郎左衛門が鵠沼海岸に鉄砲場を設けるにるに当たって、鵠沼から二人が見回り役とされ、その際、名字帯刀を許されたという。
長屋門を過ぎて道なりに行くと、風化した道祖神右側に道祖神三体がある。(本鵠沼5丁目11)これが苅田の辻という所らしい。
                




道祖神と庚申塔
右手を進み道なりに進むと藤沢警察前に出る。湘南新道30号線を横断し直進すると、道祖神と庚申塔があり案内板がある。茂兵衛の辻と呼ばれる所である。庚申供養塔は宝暦3年銘(1753)、右側を進む。小型車がやっと通れるほどの道幅、道がくねくねと曲がり古道であったことが分かる。






タブの木と稲荷大明神
やがて大きなタブの木が目につく。212号緑地、タブの木の側に稲荷大明神がある。
本鵠沼駅前を過ぎると商店街、道幅は狭くく、やや下りとなり、ここも車一台が通るのがやっと。豆のはざまという豆屋さん。「一日20粒食べて健康」とか。歩かないでないで豆を食うか。

十字路になるが、あくまで前へ前へ。
突き当りが、Y氏の大邸宅、ここでBからの道と合流する。
BルートとCルート。どちらかといえば、Cルートの方が古道の面影が残るが、集団での歩行には住民の理解は得られにくい道である。

ミニ開発が進む 突き当りがみどり園鵠沼
ここで、その三で見た鵠沼郷砥上ヶ原の道の図に戻って見ていただくと、Y氏宅の東側はかつて川袋の大湿原である。川袋を迂回して境川へ向かうことになる。
Y氏宅の角を直進する。ここら一帯は、低地でごく最近まで畑であったところである。新しい住宅、目下売出し中の土地、畑が混在する。みどり園鵠沼という介護施設、まだまだお世話になりたくないため歩いているわけだ。                   




やがて上り坂になり道幅が狭くなる。突き当り、桜が岡2−1、左折すると道幅が広くなり、いわゆる鵠沼らしい閑静な住宅地、瀟洒な建物が多い。
突き当りが悠学館 左へ曲がる
突き当りが悠学館という大きな建物、マンションでもないようだ。左へ曲がりすぐ右がグリーンビルタニ、道なりに下って行くとさらなる高級住宅地が続く。突き当り鵠沼3−1、右へ、黄色の家を左に曲がると江ノ電、線路を横断し右、八百屋の角を直進するとB・Cルート終点境橋である。
Y氏宅からは古道の影は一糸もないが、だだ低地の鵠沼地区にあって高台であることだけである。




境橋付近
境橋付近には渡しがあった記録はないようだ。鵠沼地区でただ一つ、この下藤ヶ谷で遺跡、弥生式土器、土師器が出土したという記録がある。確認されている渡しは、さらに下流のポンプ場付近、鵠沼地区景観10選―7、遊歩道と松とボートの撮影ポイントに紋十郎河岸という渡し場があった。
                
前述の古老の話では、江戸時代、物資の荷揚げ場があり、南部の本村(本鵠沼)、羽鳥、明治村に荷を運んだ渡しがあったということである。

以上が、藤沢市教育委員会調査「大庭御厨の景観」によって推定された砥上ヶ原を通る三つの道の実査である。再び前に戻って、西行が砥上ヶ原で歌を詠んだ地点を推測してみると、日が沈む景色が観られるのは川袋湿地の東側、石上の渡しがあった付近ではないか。
西行が歩いた藤沢のみちなんて、大げさなタイトルをつけて、勝手にあれこれ想像してウォーキングを楽しんだだけです。

寒かった冬が過ぎて、あたりの空気がぬるんでくると、心が浮きたってくる。
西行の有名な歌をもって、6回に亘る駄文を終りとする。
願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ西行の願いは、この歌を詠んでから十年後に叶うことになる。   (完)

参考・引用文献
「西行物語」(全注記) 桑原博史 講談社学術文庫
「大庭御厨の景観」 藤沢市教育委員会
「西行花伝」辻邦生 新潮文庫
「藤沢市史」第1巻 藤沢市
「蓮池 川袋低湿地形成と蓮池の変遷(序説) 渡部 瞭 WEB
「ふるさとまっぷ辻堂」 藤沢市
「藤沢史跡めぐり」藤沢文庫刊行会編 名著出版
「藤沢の地名」日本地名研究所編 藤沢市