小栗判官伝説ゆかりの里を訪ねる 1-1

八柳 修之

小栗判官と照手姫の話は、説経節、浄瑠璃、歌舞伎と広く知られており、私は子供の頃、ポプラ社の名作全集で読んで知った。室町前期、鎌倉公方と管領家(*)の間に争いがおき、関東における戦乱の様子を記した「鎌倉大草紙」は、小栗伝説を記す最も古い文献である。一部史実と伝承、時宗の浄土宗の教えをミックスした小栗説話、時宗総本山遊行寺長生院(ちょうしょういん)に伝わる「小栗略縁起」の説話に出て来る場所である東西の俣野地区を訪ね歩いて見た。
(*)鎌倉公方とは、室町幕府の征夷大将軍が関東十ヶ国における出先機関として設置した鎌倉府の長官。
   関東管領は公方を補佐するために設置された役職


      
小栗判官一代記略図 説明文は長生院に伝わる「小栗略縁起」の要約

                 



現在の東俣野町戸ノ久保 
  龍長寺前から撮影 梨畑となっている。

小栗主従商人体に打扮で三州に赴く
室町時代、応永25年(1423)、上杉禅秀の乱という争乱があった。これは鎌倉管領足利持氏に対して、上杉禅秀が起こした反抗で、鎌倉から関東各地に戦火が広まった。
常陸の国、小栗の城主であった小栗満重は、謀反の企みがあると讒言され足利持氏に攻められ敗れた。
小栗は十人の家来と共に商人の姿に身を変えて三河の国の一族を頼って落ちのびる。



判官邪弶に罹りて横山の館に宿す
その途中、判官、悪い熱に罹って藤沢俣野の横山の館に宿をとった。横山は実は盗賊で、小栗の財宝を狙い、種々もてなしをし機会を窺った。横山には多くの女がおり、その中に照手姫という絶世の美女がいた。

横山なる人物、盗賊、強盗という記述のほか、武蔵相模国郡代あるいは郷士という記述もある。
さて、横山の館はどこにあったか。新編相模国風土記によると、殿久保(戸塚区東俣野町戸ノ久保、龍長院付近)という所にあったらしいと言われている。「小栗判官満重が寓せし、横山大膳が居跡と云ふ、今畑となり、傍らに古松樹あり花立松と呼ぶ」。
一方、照手姫は遊女、郡代横山氏の娘との記述もある。
伝承によれば照手姫の住まいは御所ヶ谷(閻魔堂跡付近か)にあり、殿久保から見て乾の方角(北西)に当たるので乾の御所と呼ばれていた。









鬼鹿毛に御して判官櫻馬場に碁盤乗の図

横山は、悪馬で人を喰い殺すという鬼鹿毛(おにかげ)という暴れ馬に乗せて振り落とし殺そうとしたが、小栗は馬術の達人でなんなく乗りこなした。これを見た横山と一族は驚き、我々の力では討ち取ることは難しいと思った。
ウォーキングでよく立ち寄るウィートリッヒ市民の森は、以前、鬼鹿毛山と言った。
前述、相模風土記に「鬼鹿毛と名づけし名馬を、飼育し所と云ふ、案ずるに、是全く【鎌倉大草紙】に見えたる小栗小次郎が故事に附会せし物なり」とある。

ウィートリッヒの森は、スイス人アーノルド・ウィトリッヒ氏の屋敷林で故郷スイスの風景に似ていることからこよなく愛し育てた森、昭和58年に他界後、夫人が横浜市に寄贈された。←ウィートリッヒの森入口(写真撮影:石井邦敏氏) 
(その1続く)