紀行

マレー半島縦断列車の旅(2)

 2013年1月14日 池内淑皓
夕方、チャオプラヤ川畔で、ナパポーンと友人のヌチャリー家族とで晩餐会を開いてくれた。
この二人、今から28年も前の事、私が一人でバンコクから泰緬鉄道に乗り、クワイ川のタイービルマ国境間に架かる“戦場に架ける橋”を見に行く旅をした時、同じ列車で遠足に来ていた高校一年生の彼女達だった、以来文通し合って今に至っている。ナパポーンの家には2度程訪ねて滞在しているし、彼女も日本へ二度来て、私の家に泊まっている間柄だ。ヌチャリーとははるか昔、家族と共に夕食をご馳走になっている(1987年)、ヌチャリーの夫君はコンピュター会社の会社員、ナパポーンの夫君はブリジストン タイランドの技術屋さんである。
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1985年泰緬鉄道の旅で出会ったナパポーン(右端)とヌチャリー(右から3人目)高校生戦場に架ける橋が見える、橋の向こうはミヤンマー                1987年ヌチャリーの家族と私(後方右から3日人目) チャリー(私のとなり)夕食をご馳走になった。お父さんは後方左端
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2012年11月17日チャオプラヤ川畔のレストランにて ナパポーン(右)とヌチャリー(左) すっかりおばさんになってしまった。 
 11月18日(日)マレーシアバターワース行きの列車は14:45定刻ファランポーン駅を出発した。ナパポーンと夫君が見送りに来てくれた、ビールと、サンドイッチとスナックと水を差し入れてくれた、いつもの事だけれど嬉しい。
私の乗る二等寝台は下段、広々として快適、隣はドイツ人のカップル、後ろはイギリス人のケイスさん、斜め後ろはベトナム人のソフィアとマレーシア人のエニャミさんという若い女性の友達同志、他の乗客は現地人で、日本人は私一人だけだった。
 夕食の注文取りが来てA、B、Cメニューから食事を選ぶ、食事が出来上がれば、ビュフェで食べても良いし、座席まで持ってきてもくれる。ベッドメーキングのボーイさんが来てベッドを作るまで旅の話をする。列車の旅の良さはここにあるのだ。21時過ぎれば皆眠りにつく、ベッドの中のライトは暗く、列車は揺れるので日本のように本を読む状況ではなかった、エアコンが効いて寒いくらいだ。
              
 マレー半島の地図(地球の歩き方「マレーシアより」
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ファランポーン駅にて出発は 14:45 寝台車ベッドメーキング前の座席 シンハが何ともうまい
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英国人のライスさんとビールで歓談  左ヴェトナム人のソフィア(手前)とマレーシア人のエニャミ
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タイ側の国境 パダンブサールの入管
(駅のホームにある) 
マレーシア側の入管で  台湾の張徳威さんと
タイ、マレーシア国境の駅パダンプサール駅には翌朝9:14に到着、荷物すべてを持ってホームに降りる、客車はそのままであるが機関車はマレー鉄道のディーゼルが付く、乗客は全員係員に促されてホーム内にあるタイ出国検査を受ける、OK となれば今度は歩いて20m先のマレーシア入国審査を受ける、出入国カードの提出は不要であった。全ての検査が終了するとまたホームに戻る、全員元の座席に戻ると列車は終着駅のバターワースに向けて出発する。
 出入国検査の最中に台湾の 張さん と云う28才になる活発なトラベラーと知り合いになる、何となく同じ顔つきのアジア人だから自然と馴染みになってくる。今中国と日本は仲が悪いが台湾は違う、昔から親日的なのだ。
 現役時代に台湾を一人旅した時の事、台中の埔里に滞在中偶然食堂で知り合った女性の家に招待され、更にVIPの泊まるホテルを無料で予約して頂いた事がある。これらの出来事を張さんに披露すると、大きく頷いて満足そうな笑みを私に返してくれたのを昨日の様に思い出される。案の定彼女は私がペナン島に渡り、目指すホテルまで路線バスに同乗しフォローしてくれた。若いのに白髪の私をエスコートしてくれたのだ。
受け取らないという彼女の手のひらに無理やり食事代を握らせた。埔里の恩を含めて今の僕には精一杯のお礼の気持ちを表したかった。

続く