弟 米長邦雄永世棋聖の思い出

米長 修

1218日、大棋士の訃報に驚きました。米長邦雄永世棋聖が享年69歳で早世されたのでした。
将棋連盟会長としてご尽力されていたさなかの事で、多くのファンが棋士の長逝を悼みました。
忌中ながら、棋士の兄 米長修さん(FWA会員)に、弟さんの思い出を書いて下さいとご無理
をお願いしました。米長さんは、十余年もFWAにお世話になっているので恩返しのためにと、
手記を引きうけて頂きました。米長邦雄永世棋聖のご冥福をお祈り申し上げます。(編集部)

私は昨年12月に亡くなった将棋プロ 米長永世棋聖の兄です。
米長 修さん
 私たちは山梨県の増穂村(現在の富士川町)で生まれました。名前の通り稲穂豊かな農村で、米長家は村一番の大地主でした。父は兵役検査が丙種不合格という虚弱で、戦争に行けない代わりに、お国のためにと宝石や着物などを供出し、有り金をはたいて国策の満州鉄道の株を買いました。戦争が終わると、農地解放で土地はなくなり、株は紙くずになり、無一文の貧乏人になってしまいました。運に見放されて どん底に落ちた訳ですが、弟は後年、親がお国の為に運気を使い果たしたので、神様が子供達に運気を返してくれたのだと述懐しています。
 将棋を覚えたのは弟が小学生に上がるころで、四人兄弟が二組に分かれ、暇さえあれば将棋を指していました。しばらくすると三男が四男の邦雄に負け、さらに二男の私も勝てなくなりました。弟が小学六年の時、山梨県の将棋大会で初段以下の部で優勝しました。

翌日佐瀬七段というプロと、アマ有力者が我が家に来て、この子は将棋の才能が素晴らしい、中学になるとき内弟子になってプロを目指してもらいたい、経済的には一切面倒を見ると言われました。両親は将棋界の知識はありませんでしたが、最後の一言が決め手になり承諾しました。つまり、弟が将棋の世界に入ったのは口減らしのためだったのです。弟は後に引けない人生を選んだことを自覚したのか、お使いに出ても、将棋を考えるあまり何も買わずに帰ってきたことがあるという将棋漬けの修業をしました。正月休みに帰ってきたときは、母の指図で弟は何もせず、兄たちが食事の手伝いをし、布団の上げ下げまでしました。弟にお前はお客さん扱いでいいなと嫌味を言ったところ、兄さんたちは毎日母さんの作ったご飯を食べているじゃあないかと言われてしまいました。内弟子生活の辛い一面を覗いた思いがして、胸が熱くなりました。

 さあ、これからの人生が面白いというところで紙数が尽きました。成功した後の活躍は新聞などで報道された通りです。死ぬ前に兄たちに会いたいと弟がいうので三兄弟が見舞いに行きましたが、その三日後に亡くなりました。血は水よりも濃いとの思いを深くしました。会員の皆さんしか知らないことをあれこれ書きました。残念ですがペンを置かせて頂きます。  合掌