紀行

マレー半島縦断列車の旅(8)

 2013年2月26日 池内淑皓
[ マラッカを歩く ]
 日本の石油輸送にとって最も重要な拠点、マラッカ海峡について説明してみたい。
はるか昔7〜8世紀頃からユーラシア大陸の東西を結ぶ海峡として、重要な地点となっていた、15世紀初頭大航海時代に入ると、ヨーロッパからアジアを目指す貿易商達が、盛んに行き来するようになってくる。丁度日本の室町時代から安土桃山時代に相当するだろう。中国の都長安から西域へ天山南路、天山北路を経由する陸のシルクロードに対して、マラッカは海のシルコロードの寄港地として栄えることになる。
 当時のマラッカはスルタン(族長)が統治する王国であった、ヨーロッパからアジアに抜ける主要な寄港地として、西洋の国々はマラッカの争奪戦を繰り広げて来た、1511年ポルトガルが交易の独占を目論みここを占領する、1641年にはオランダがポルトガルを駆逐してここを占拠する、そして1786年今度はイギリスがこの半島を奪い、英領マラヤとして植民地統治が始まった。
 英国は莫大な資本を注ぎ錫鉱山、ゴム農園等の開発を進め、中国や南インドからたくさんの労働者を移入させ、プランテーションで働かせた。
 今それらの国々が残した歴史的な遺産の多くが、この小さなマラッカの町に残り、全体が世界遺産として育まれてきた。それらのいくつかを紹介してみよう。
        
[マラッカ 旧市街地図]   (地球の歩き方「マレーシア」から引用)
オランダ広場、時計塔、ムラカ・キリスト教会、サンチャゴ砦、セントポール教会、マラッカスルタンパレス
マラッカ王国スルタンの家(復元されて博物館となる) 部族長達の会議の様子
[サンチャゴ砦]
1511年ポルトガルがオランダの進出を阻止するために築いた砦で、ポルトガル軍が据え付けた大砲もある
[ムラカ・キリスト教会と時計塔]
1753年オランダ統治時代に建てられた時計塔とキリスト教会、マラッカの中心地で最も観光客の集まるこの町の中心的な場所、多くの書物、絵葉書等にも載る撮影ポイント(オランダ広場のキリスト教会(写真左)と時計塔。マラッカ名物「トライショー」と云う派手に飾り付けられたサイドカー式の自転車に乗って、町を一巡りするのも楽しい、ラッパの警笛と大音響の音楽のテープが流れ、乗っていると他の観光客にじろじろ見られて、恥ずかしい(写真右)。
 
[独立宣言記念館] 独立の日凱旋パレード
1912創建のイスラムの気風が残る洋風建築、マレーシアが独立を勝ち取るまでの歴史が絵画や展示物として残されている。旧日本軍のマレー進攻、日本軍の降伏、イギリスとの戦い、独立宣言の日等の絵画が印象に残る。 
華人街 財を成した華人の家
[ プラナカン]
遥か昔からこの地方に渡ってきた中国人たち(華人)は、土着のマレー人と新たな民族を作る、その子孫たちをババ・ニョニヤと呼び、独特の文化を醸成してきた(プラナカン文化)、財を成したババ・ニョニア商人達の家が今、プライベートミュージアムとして一般公開されている。  
 
ババ・ニョニア 財を成した先祖 ガラスビーズ刺繍(代々子孫に受け継がれるプラナカン文化)
[青雲寺 ]
華人達は代々ここに住み、ババ・ニョニアと呼ばれても故郷を忘れない、1646年総て中国から運んだ資材で建てられたマレーシア最古の寺院、参拝者が絶えない。寺の屋根には陶磁器で出来た動物や人物の像がたくさん飾られていてとても綺麗だ。
マラッカ川が海峡に注ぐ、賑やかだった貿易港も今は静かだ  マラッカ海峡
既に記述したように太平洋とインド洋を結ぶ海上交通の要衝、2005年の統計では通過船舶 9万隻を越えるという、世界のシーレーンでもスエズ、パナマ運河、ホルムズ海峡に並ぶ重要な航路となっている。
海峡は全長900km、幅65km、水深25m、潮流激しく岩礁、小さな島、浅瀬が多く最も狭い場所は数キロメートルのところがある。
 茜色に染まる海峡の畔に佇み、マレー料理の定番である「フィッシュヘッドカレー」を肴に独りビールを飲む、今まで訪ねてきたインドシナ
半島の国々が走馬灯のように頭をよぎる。

続く