紀行

越前を歩く(1)

福井城址と北ノ庄城祉


 池内 淑皓
平成25年4月18日(木)日本ウオーキング協会主催の「平成奥の細道ウオーク」の前日、少し寒かったが陽春の中に佇む永平寺を訪ねた。
 4月17日横浜発22:35福井・金沢行きの高速バスに乗車した、シートは3列座席で乗客も少なく余裕があり、快適に眠ることができた。
 5:30福井駅前到着、行動を起すには早過ぎる時刻なので、荷物を駅前のホテルに預けて福井城祉に向かう(駅から歩いて5分)、途中コンビニで朝のお弁当を購入する、弁当とお茶をぶら下げて福井城祉の堀端で朝食とした、ここからの行動は画像を見ながら一緒に散策しよう。
     
福井駅周辺図]  中央の青い堀は福井城祉、ペンで囲みの部分は北ノ庄城址(柴田勝家居城跡)

[結城秀康公]

[結城秀康公] 福井藩初代藩主、天正2年(1574)徳川家康の側室の子、次男として浜松に生まれる、天正12年小牧長久手の戦いで、秀吉と和睦の為 秀康を秀吉の養子に差し出す(人質)。元服して羽柴秀康と名乗る。
天正18年秀吉は関東を抑えるため下野の結城氏に養子として出し、11万石で結城氏の家督を継がせる。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦功により、越前北ノ庄へ67万石に加増して移封された、1604年松平と名乗り6年かけて「北ノ庄城」を完成させるが1669年焼失、以後財政難のため天守閣は再建されなかった。
1624年三代藩主松平忠昌が「北」の字が不吉であるとして北ノ庄から「福居」に改められ、さらに「福井」となった、現在県庁、市役所、警察本部が置かれた公園となっている。

 
 [ 福井城址]
 [ 福井城址] 堀と石垣の遺構が残る、桜は散ってしまった

福井城本丸復元図

[ 北ノ庄城址(柴田勝家の居城)] を訪ねる

 JR福井駅から徒歩10分の所にある北ノ庄城址を訪ねた、エエエッ!と思うくらい小さな場所で、城跡が「北ノ庄・柴田公園」となり、一角に「柴田神社」があり、勝家とお市の方を祀る。
 勝家は斯波氏の庶流柴田土佐ノ守の子として尾張に生まれる、名は柴田権六勝家、織田信長の重臣の一人で筆頭家老であるが、生来武骨な性格が欠点であった。
 天正3年(1575)信長が越前の一向一揆を平定すると、勝家は功により越前49万石を与えられ、北ノ庄に壮大な天守閣を持つ城を築いた。信長が本能寺に倒れると後継者を巡って羽柴秀吉と対立する。
 天正11年(1583)4月、賤ヶ岳の戦いに敗れて北ノ庄に敗走、信長の妹お市と共に自害した、二人のお墓は足羽川の対岸「西光寺」にある。又別に滋賀県高島市の幡岳寺に位牌がある。
           
 [福井駅、北ノ庄城跡、西光寺 周辺図]   川は足羽川 

[北ノ庄城 想像図] 
九層の天守を持つ最大級の城と云われたが、秀吉に攻められ8年で焼失した。

[北ノ庄公園に立つ 復元模型]
石垣等の用材は、結城秀康の福居城建設ではぎ取られてしまう後方の建屋は柴田神社

[北ノ庄柴田公園]  正面 柴田勝家像、 左柴田神社 右北ノ庄城模型

[柴田勝家像とお市、お江、お初、お茶々 ] 敷石は全て城跡の石
浅井長政に嫁いだお市、浅井氏滅亡のあと勝家と再婚、勝家の最後と共に命を絶つ

[ 出土品]

[ 勝家、お市が眠る西光寺]

[西光寺 ]  今日は偶然勝家、お市の供養の日であった。

 [柴田権六勝家と妻お市の墓] 智謀の差であるとは云え、世の無常を感じざるを得ない

[勝家・お市の木像]  西光寺内宝物館内にある  「毛愛兄弟霊」 とある

勝家辞世の句  <夏の夜の夢路はかなき後の名を 雲井にあげよ山ほととぎす>
お市の方辞世の句  <さらぬだに打ちぬる程も夏の夜の 別れを誘うほととぎすかな> 
                                               この項完