寄り道さん歩

 寅さん歩 その8−2

東京発祥之地めぐり〜産業・商業編2−1

平野武宏


さすがに首都 東京には産業・商業の発祥之地がたくさんありました。産業・商業の続編です。

郵便発祥之地
中央区日本橋1-18-1 最寄駅 東京メトロ東西線 日本橋駅

 昭和通りを歩いていると江戸橋南交差点角にある日本橋郵便局前で発祥之地案内プレートと郵便の父 前島密のブロンズ像に出会いました。
明治4年(1871年)それまでの飛脚制度に代わる伝達制度がスタートしました。
日本橋と京都・大阪に郵便役所がおかれ、三都市を結ぶ街道筋の宿駅62か所に郵便取扱所が設置されました。日本橋の郵便役所は今の東京中央郵便局の前身で、駅逓司(旧郵政省に相当する通信・郵便業務を統轄する機関)もあったのでここが発祥の地になったとのことです。

 

銀行発祥之地

中央区日本橋兜町4-3 最寄駅 都営浅草線 日本橋駅



日本橋散歩で見つけました。現在、みずほ銀行兜町支店が建つ場所(写真左上)に日本最初の銀行 第一国立銀行があったそうです。
明治6年(1873年)三井八郎右衛門、小野善助が設立、初代頭取は渋沢栄一
その後、第一銀行に改称、昭和18年(1943年)三井銀行と合併して帝国銀行となります。右上写真はレリーフの拡大です。
なお、近くには海運橋跡(海運橋親柱)の史跡があります。

日本銀行発祥之地

中央区日本橋箱崎町19-21 最寄駅 東京メトロ半蔵門線 水天宮前駅

 ウオーキング例会の途中で見つけました。茅場町から豊海橋を経て、日本橋箱崎町に渡ると正面に日本IBM本社ビルがそそり立っています。隅田川側のビルの手前に碑がありました。碑には明治25年(1892年)10月10日この地で開業。明治29年(1896年)4月に日本橋本石町の現在地に移転と記載してありました。創業時の本館の図は貼られたプレートに取り付けられています。

国産飛行機発祥の地
 
新宿区西五軒町12-10 最寄駅 東京メトロ有楽町線 江戸川橋駅

 江戸橋駅から目白通りを飯田橋方面に向かうと千代田商会のビルの壁に説明板を見つけました(写真左)。 ここは明治42年〜43年(1909〜1910年)日野熊蔵陸軍大尉により最初の国産飛行機(日野式一号機)が造られた日本醸造機械株式会社)の跡地とのこと。文献を参考に独学で完成した国産飛行機の初飛行は機体が浮上せず失敗でした。

日本航空機発始之地

            最寄駅 JR山手線 原宿駅
 日本での初飛行は何処かと探したら、代々木公園南門を入ると左手にありました。代々木公園は陸軍代々木練兵場でした。
日野熊蔵陸軍大尉はこの発祥の地にも登場しています。
明治43年(1910年)12月19日徳川好敏陸軍大尉がフランス製のアンリ・ファルマン複葉機で高度70メートルで4分間、飛行距離約3,000メートルを飛び、続いて日野熊蔵陸軍大尉がドイツ製グラーデ単葉機で飛びました。
二人はそれぞれの国に派遣され航空機の操縦と航空機の購入を命じられ、それぞれの国の飛行機を持ち帰り、初飛行に臨み成功しました。
飛行は7日間にわたったそうで、微妙な判定で徳川大尉が初飛行の名誉と判定されました。(真偽のほどはわからないが日野大尉が譲ったと書く本もあり)
初飛行記念碑(写真上)の左手前に二人の胸像は仲良く並んでいました。右が徳川大尉、左が日野大尉です。
徳川大尉胸像の正面の名前の脇には「日本航空の父」と書かれ、日野大尉は名前のみでした。
日野大尉の右脇面には「限りなき大空 限りある人生 限りなき代々の祖国のため 限りある現世の定命をささぐ」と記載。また、日野大尉の像の後面には明治44年(1911年)6月17日、日野大尉作詞「飛行機唱歌」の歌詞が書かれていました。姿は徳川大尉のみ飛行服と二人の胸像の違いに感じるものがありました。

 寅次郎、中学校の同級生に日野大尉の関係者の女性がいたのを思い出しました。組が違い、教室が離れていましたが、詳しく話を聞いておけばと悔やんでいます。でも当時は他の組の女性に話が出来ない純情な寅さんでした。

国産宇宙ロケット発祥之地  
杉並区桃井3-5-5 最寄駅 JR総武線 西荻窪駅

                
 宇宙ロケットの発祥の地は知りませんでした。本で見つけて出かけました。
西荻窪駅前北口から「にしおぎ北銀座」を道なりに歩き、青梅街道の桃井四丁目の交差点を渡って右折、少し行くと日産プリンス東京販売荻窪店の敷地に「旧中島飛行機 発動機発祥之地」の碑がありました。その先に「ロケット発祥之地」の碑もありました。西荻窪駅からは約15分かかりました。
ここにあった中島飛行機製作所は戦闘機「隼」を開発・製造、昭和28年(1953年)社名を富士精密工業(後のプリンス自動車、現在の日産自動車)とし、東京大学生産技術研究所の指導(糸川英夫氏)を受け、昭和30年(1955年)国産宇宙ロケットにつながる「ペンシルロケット」の開発に成功しています。

(産業・商業2−2へ続く)平野 寅次郎 拝