紀行

寅さん歩 その8−5

東京発祥之地めぐり 〜学問・文化編ー1〜


平野 武宏
近代教育発祥之地 湯島聖堂

文京区湯島1-4-25  最寄駅 JR 御茶ノ水駅

神田明神の神田祭(写真下右)の帰りに、向かい側にある湯島聖堂に立ち寄り、発祥之地を見つけました。
寛永9年(1632年)林羅山が上野忍ヶ岡の私邸内に徳川義直より孔子聖像他の寄進を受けて孔子廟を創建。元禄3年(1690年)五代将軍綱吉は孔子廟をこの地 神田台に移し、昌平坂学問所としました。
     
明治新政府は昌平坂学問所を「昌平学校」と改め高等教育機関としました。
明治2年(1869年)には東京開成学校と東京医学校を合併して「東京大学の前身」を発足。明治5年(1872年)ここに文部省を移し、東京師範学校(「東京教育大学」 筑波大学の前身)を設立しました。

同年には我が国初の博覧会が湯島聖堂の大成殿(写真上左)で開催されています。土休日は大成殿の公開日でした。
明治7年(1874年)東京女子師範学校(御茶ノ水女子大学の前身)も設立された近代教育の発祥之地です。湯島聖堂の反対側の聖橋のたもとにその案内板がありました。(写真上)現在は東京師範学校の跡地は東京医科歯科大学になっています。東京師範学校では「ドッチボール」や「ソフトテニス」が初めて紹介され、それぞれの発祥之地とのことです。
築地居留地跡   

中央区明石町 最寄駅 東京メトロ日比谷線 築地駅

築地は17世紀に海浜を埋め立てて土地を築いたことからその名がついたそうです。今では築地市場や近代的な聖路加ガーデンで賑わっていますが、安政5年(1858年)幕府がアメリカ、ロシア、イギリス、フランスと通商条約を結び江戸の開市が決まると築地明石町一帯(現在の聖路加国際病院一帯)は外国人の居住や貿易取引を許可した地域として築地居留地が設けられた。


浅い東京湾では大型の貿易船が入港できなかったため貿易はもっぱら横浜港で行われ、その代り明治3年(1870年)にこの用地が分割貸与され始めると外人住宅・公使館・ミッションスクール・病院などが次々に建ち、町はにわかに西洋風に変わりました。その後、移転していった多くの建物跡地には石標や碑が残されています。碑めぐりも興味深いですが、碑を探すのに行ったり来たりして、ひと苦労でした。

 
指紋研究発祥之地  ヘンリー・フォールズ住居跡

中央区明石町8  最寄駅 東京メトロ日比谷線 築地駅

犯罪の捜査で必ず出てくる鑑識による指紋確認。指紋研究の発祥之地が日本だったとは初めて知りました。
明治7年(1874年)イギリス人ヘンリー・フォールズが宣教師兼医師として来日し、当時大評判だった大森貝塚を見学し、出土品に残された古代人の指紋を見つけて、指紋の科学的な研究を開始
明治13年(1880年)にイギリスの雑誌に論文として発表。以降の犯罪捜査に貢献するきっかけとなったそうです。
日本の警視庁は明治44年(1911年)鑑識課を設置しています。



聖路加国際病院の近くに碑(写真上)があると案内板にあり、クレストンホテル前の交差点の茂みの中にある碑を見つけるのに苦労しました。そこはイギリス人ヘンリー・フォールズの住居跡でした。

近代文化事始之地  旧中津藩邸   

中央区明石町11  最寄駅 東京メトロ日比谷線 築地駅

築地駅から聖路加国際病院に行く途中のロータリーに「近代文化事始の地」の看板(写真下)と「慶応義塾発祥之地」(写真下左側)、「蘭学の泉ここにあり」の碑(写真下右側)がありました。
     


蘭学事始之地


赤と黒の御影石の厚板を屏風に見立てた立派な記念碑で右の赤石には 女性の人体図と解体新書の文字、左の黒石には「蘭学の泉はここに」との説明文ですが、文字の判読は不可でした。
ここは豊前中津藩奥平家の中屋敷で、豊前中津藩の医師 前野良沢、若狭小浜藩の医師 杉田玄白中川淳庵、幕府漢方医 桂川甫周も加わり、この屋敷内で4年かけてオランダの「ターヘル・アナトミア」を翻訳し、安永3年(1774年)「解体新書」を完成。西洋医学が日本中に知れ渡ることになります。

慶応義塾発祥之地

蘭学事始めの碑の左横には慶応義塾発祥之地の碑がありました。



慶應義塾の創始者福沢諭吉も同じ中津藩邸内で安政5年(1858年)に慶応義塾の前身である蘭学塾を開いたそうです。
台座の上の本には「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」の有名な言葉が書かれていました。
この場所に外人居留地が造られることになり、慶応4年(1868年)やむなく芝新銭座に移転。元号にちなんで「慶応義塾」と改称されたそうです。3年後には現在地の三田に移っています。

     
寅次郎 お世話になった母校の発祥之地を正式に訪問するのは初めてで、長い間のご無沙汰をお詫びしました。
後日、三田キャンパスにも行ってきました。校舎は新しくなっていましたが、昔の建物は健在でした。(写真左 東門、右図書館)

 [学問・文化編 その2へ続く]   平野 寅次郎 拝