紀行
東京発祥之地めぐり 〜学問・文化編ー4〜
平野 武宏 | ||
川柳発祥之地 三筋二丁目交差点 台東区蔵前4丁目 最寄駅 都営大江戸線 蔵前駅 |
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蔵前駅から春日通りを行くと、三筋二丁目の交差点に行き当たります。交差点の角に発祥之地記念碑(写真下左)がありました。 記念碑は平成19年(2007年)8月25日 川柳誕生250年を記念して建立。 |
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柄井川柳のお墓(龍宝寺) | ||
川柳は柄井川柳(本名 柄井八右衛門)が創始者とされ、宝暦7年(1757年)8月25日にこの地 浅草新堀端の天台宗龍宝寺で日本初の万句合(まんくあわせ)を開催したそうだ。万句合とは選者が前句の刷り物を事前に頒布して、付け句を募集し、集まった句の中からよくできたものを選びだし、印刷して頒布するイベントとのことで大評判を呼んだそうです。(和歌又狂歌の五七五七七の七七を前句とし、付句は五七五です。付句が川柳になりました) ここで選ばれた川柳はのちに呉陵軒可有(ごりょうけんかゆう)の手で編集され「柳多留(やなぎだる」と名付けて出版、ベストセラーとなったそうです。 今の「サラリーマン川柳」の生い立ちを学んだ寅次郎でした。 柄井川柳のお墓(写真上右)は記念碑手前の路地(蔵前4-36表示)川柳横丁を入ってすぐ左の龍宝寺境内の柳の下にありました。 お帰りは春日通りを直進すると、御徒町駅です。御徒町・上野での散策をお楽しみ下さい。 |
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江戸歌舞伎発祥之地 中央区京橋3丁目 最寄駅 東京メトロ銀座線 京橋駅 |
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歌舞伎は慶長8年(1603年)出雲阿国が京都で「歌舞伎踊り」をしたのが始まりです。江戸歌舞伎の初興行の地は今の東銀座の歌舞伎座とは少し離れた、かっては中橋と呼ばれた今の京橋北詰です。 寛永元年(1624年)京都から下ってきた猿若(中村)勘三郎一行が京橋の北の中橋広小路に芝居櫓「猿若座」をあげたのが江戸歌舞伎の始まり。 その後市村座、森田座、山村座と次々に芝居小屋が出来て、江戸歌舞伎は一躍大人気となり大衆文化の頂点へと上り詰めました。やがて「猿若座」は「中村座」と改称し、人形町に移りました。 |
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伝言板発祥之地 一石橋 迷い子のしるべ石碑 中央区八重洲1-11 最寄駅 東京メトロ銀座線 三越前駅 |
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日本橋三越前裏 呉服橋側にある一石橋。橋を挟んで北側に幕府金座御用の後藤庄三郎、南側に幕府御用呉服 後藤縫殿輔(ぬ伊之助)と二つの後藤家があり後藤を五斗に転じ、合わせて一石になることから一石橋の名がついたというのが通説、ダジャレで命名された橋とのこと。 |
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当時の橋は撤去され親柱一基が残っています。 写真左は今の橋のたもとに安政4年(1857年) 建立の迷子しるべの石碑。正面には「満(ま)よひ子の志(し)るべ」左側には「たづぬる方」、右側には「志(し)らする方」、裏側には「安政四年巳年2月御願済建立 西河岸町」と彫ってありました。 いわゆる庶民の伝言板で、もし連れてきた子供が迷子になったら子供の名前・特徴を書いた紙を左側に貼り知らせました。迷子を見つけた時はその子の特徴・見つけた場所などを書いた紙を右側に貼り知らせます。情報連絡の伝言板の始まりです。 迷子だけでなく尋ね人でも可だったようですので、縁結びにも使われたかもと憶測の寅次郎でした。 |
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湯島天満宮「奇縁氷人石(きえんひょうじんせき)」 文京区湯島3-30-1 最寄駅 東京メトロ千代田線 湯島駅 |
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湯島の白梅(写真上右)で有名な湯島天満宮境内の梅の木の下にも碑が(写真上左)があります。他から移設したそうですが、嘉永3年(1850年)の日本で一番古い碑だそうです。 氷人とは「とりもつ人」の意味。石柱の右側に「たつぬるかた」、 左側に「をしふるかた」と記されてありました。 |
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浅草寺 まよひごのしるべ石 台東区浅草2-3-1 最寄駅 東京メトロ銀座線 浅草駅 |
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浅草寺 観音堂の手前左側に見つけまし。 安政7年(1860年)新吉原の松田屋嘉兵が宝蔵院前に造立。昭和20年の空襲で倒壊、昭和32年(1957年)に再建とのこと。 日本橋、湯島、浅草は当時から繁華街で多くの人出があったことがうかがわれます。 江戸時代には迷子は町内で保護したという江戸っ子の気質が偲ばれます。 浅草寺の境内にはたくさんの小さな寺社や石碑があります。境内をゆっくり見てください。また下町文化のお祭りもあります。 |
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三社祭 | ||
ほうづき市 |
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サンバカーニバル | ||
まだまだ歩いていると発祥之地に出会うと思いますが、ひとまず、東京発祥之地シリーズを打ち止めとします。 4ケ月に亘る長いシリーズになったので付録の索引表をご活用ください。 |
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ご愛読ありがとうございました。 平野 寅次郎 拝