紀行

寅さん歩 その9

東京の富士塚めぐりー1


平野 武宏
幼い頃から♪富士は日本一の山〜♪と歌い、社会人になって富士の冠がついた企業に勤務した関係で工場のある富士山南西麓の富士宮市に3年半住んだ寅次郎、朝な夕なにその雄大で美しい富士山の姿に感激した毎日でした。

                  
霊峰富士聖徳太子が黒駒にまたがり富士山に登る絵伝万葉の和歌に詠われ、歌麿・広重・北斎に代表される浮世絵、生涯で千点以上の富士を描いた横山大観など日本の芸術・文化の歴史そのものです。
(左写真は東京池袋のビルの間から見る富士山)
又、神に見立て、その山頂には極楽浄土があるとした富士信仰があり、信仰の源泉芸術の対象として世界の宝に相応しいとして2013年世界文化遺産登録されました。
寅次郎、都に住まいを移し、歩き回っていると、多くの神社の境内で「富士塚」と出会い、興味を持ちました。富士信仰については少し事前学習が必要と図書館に通い、関係する本を何冊か読みました。諸説や宗教的な難しいことが多々ありましたが、そこは専門家にお任せして、江戸庶民の立場 寅次郎的解釈で話を進めます。

富士塚
それまで行者しか入山できなかった修行の場 富士山がついに江戸庶民の山となり、人々は富士講と言う地域の信仰サークルを結成し、庶民信仰として富士山を目指したそうです。講の中から登る人を選び出して行くので、行けない人のために人造のミニチュア富士山を築き、山頂に小社を置いてお参りしたのが富士塚です。富士山信仰は登山ばかりでなく歩くことが大切な行で、江戸富士講は往復10日、それが次第に帰路の高尾山や相模大山、江之島への廻り参拝になって、観光登山(娯楽)の傾向を見せたそうです。

富士講の祖と言われるのが天文10年(1541年)から正保3年(1646年)まで105年生きたと言う角行。その宗教上の系図で5代目の食行身禄(じきぎょうみろく)が中興の祖で、その弟子で戸塚の植木職人だった高田藤四郎が安永8年(1799年)戸塚村(現 西早稲田1丁目)に模造富士を築きました。

 
これが江戸の富士塚第一号だそうです。
以降明治初期にかけて盛んに造られましたが、残っているのは数少ないです。
写真右は文京区海蔵寺食行身禄のお墓
手前には鳥居があり富士塚のようでした。
    

富士塚は富士山の神を宿した信仰物として聖地で、築造には基本的なルールがあったそうです。
第一号の高田富士で構成されたアイテムとよく見られる信仰物
・奥宮  (富士山頂にある浅間神社の分祀)
・小御嶽神社 (富士山五合目にある小御嶽神社の分祀。神社を挟んで大天狗、小天狗が立つ)
・烏帽子岩 (富士山七合五勺(現八合目)にある巨岩。食行身禄が31日間の断食をおこなった場所。この付近には亀岩があり)
・胎内 (高田藤四郎が発見した富士河口湖町船津胎内は木花咲郎姫(このはなさくやひめ)の胎内であると聖地になり、「胎内めぐり」が流行したそうです。生まれ変わるための修業の場、富士講の祖 角行の修業場とされています)
・講碑   (富士講はオリジナルの講紋を持ち、刻まれています)
・猿   (富士山が一夜にできたという伝説に基づき、その年が庚申の年だったため、猿は神使として登場します)
・ボク岩 (富士山から運んだ溶岩(ボク岩)を貼り付ける。これを踏むことで富士山に登ったと同じご利益があり)
・築造場所 (富士山がよく見える所に造られ、富士山遥拝も兼ねており祈念の送信所の役割も果たしていた)

〜 東京23区内に現存する「富士塚」を区毎に巡ります 〜
   最初は富士塚第一号がある新宿区です。
        
(塚の高さは伝えられている高さ、最寄り駅は代表例です)
[新宿区]
高田富士 西早稲田3 水稲荷神社内   
      最寄駅 都電荒川線 面影橋駅
      安政8年(1799年)築造の富士塚を昭和38年(1963年)に移築

富士塚第一号と言われている高田富士水稲荷神社の正面(早稲田キャンパス側)から参道に入り、すぐの右奥にありました。柵があり閉山中、「海の日と前日の日曜日に開山」と表示ありましたが、お断りして中に入れてもらいました。高さは8m位でした。水稲荷神社は現在の早稲田大学構内にありましたが、甘泉園の一部と神社を昭和38年に交換し、旧地にあった工作物・樹木一切を現在地に移転したとのことです。
浅間神社と登り口  奥宮
甘泉園とは徳川後三卿の清水家の中屋敷、明治に入り持ち主は相馬家、早稲田大学を経て東京都が買収、新宿区に移管し、昭和44年甘泉園公園)として開園。甘泉公園の斜面を上がると水稲荷神社です。

 甘泉園  水稲荷神社社殿

富塚富士  昭和40年(1965年)高田富士から再築

水稲荷神社社殿の裏にもう一つの富士塚がありました。最初はこれが高田富士と勘違いしましたが、下写真左の立札には「戸塚の町名の起源となった富塚古墳」と書いてありました。頂上には赤いよだれかけをした狐に囲まれた「奥宮」があります。高さは約6mとのこと。
富塚古墳 登り口  奥宮
鳥居の右側には胎内もありました。

東大久保富士 新宿6-21-1 西向天神社内
        最寄駅 東京メトロ副都心線 新宿三丁目駅
        天保13年(1842年)築造

新宿駅東口から歩きました。靖国通り、明治通りから文化センター通りに入り、新宿文化センターの先を右折すると西向天神社(下写真左)がありました。ここは新宿山ノ手七福神の弁財天。(新宿山ノ手七福神には弁財天が二つあり、もうひとつは「抜け辨天 厳島神社」です)境内の右手奥に富士塚(下写真右)がありましたが、フェンスに囲われ、中には入ることはできませんでした。高さは約10mとのこと。
西大久保富士 歌舞伎町2-17-5 鬼王神社内  
        最寄駅 都営地下鉄大江戸線 東新宿駅

        昭和5年(1930年)築造、昭和42年(1967年)改修

新宿駅東口から歩きました。大久保通りの鬼王神社前の交差点からすぐに鬼王神社(写真右)ここも新宿山ノ手七福神の恵比寿神です。裏の鳥居から入ると左右に富士塚がありました。
昭和42年(1967年)の本殿再建の際に二分されたとのこと。写真下右は胎内と一合目〜四合目、写真下左は五合目〜山頂の奥宮のミニミニ版です。 高さは約2mとのこと。


新宿富士 新宿5-17-3 花園神社内 
      最寄駅 東京メトロ丸の内線 新宿三丁目駅
      昭和3年81928年)築造
      昭和39年(1964年)新社殿造営で壊される。
      昭和42年(1967年)境内の他の場所移築

新宿駅東口から歩きました。靖国通りの新宿五丁目交差点を明治通りに 沿って行くと、すぐに朱色の花園神社(写真下左)。境内の右手奥に富士塚(写真下右)があります。別名は「三光町富士」、高さは約1.5mとのこと。昔は8mあったそうです。
芸能浅間神社の立札があり、その名のとおり、右側にある富士講の碑の前には藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」の歌碑がありました。
 

成子富士 西新宿8-14 成子天神社内 
      最寄駅 東京メトロ丸ノ内線 西新宿駅
      大正9年(1920年)築造

新宿駅西口から歩きました。青梅街道の成子天神下信号の手前、銀行脇から朱色の社殿が見えます。工事中なので成子天神下信号まで行き、右折し、裏に回りました。
社殿の左奥に境内の天神山を改造して築造した新宿区最後の富士塚とのこと。昭和58年(1983年)に斜面に七福神が設置され、七福神巡りとして大晦日から正月7日まで登山が解禁とのこと。但し「平成26年1月中日までは社殿の再整備工事」で中には入れません。お断りして富士塚の写真を撮らせていただきました。高さは約12mとのこと。
                     

この辺りは江戸時代「成子瓜」の大産地だったとのことですが、上から高層ビルがのしかかるようでした。

上落合富士 月見岡八幡社内 上落合1-29-16 
       最寄駅 都営地下鉄大江戸線 中井駅
       享和元年(1801年)築造
       昭和2年(1927年)上落合大塚に移築
       昭和37年(1962年)神社の移動で現在地に移築

 
中井駅から住所を頼りに通りすがりの人に聞きながら探しました。
現在は保育園の中に神社と富士塚があり、お断りして中に入りました。狭い敷地に約4mの高さで、溶岩の壁のようでしたが、腰をかがめて登ることができ、富士塚の信仰物も確認出来ました。
           
月見岡八幡宮社殿 社殿左側の富士塚  登山口の猿
中腹の大天狗・小天狗  奥宮 下山道の烏天狗

いずれの富士塚も神社の境内にありますが、社殿の裏や脇にあり目立ちません。今回の富士塚も新宿山ノ手七福神(寅さん歩 その4-3参照)で訪れた神社にありましたが、富士塚は見落としていました。
          (次回はもう少し大きな富士塚を登ってみます) 
平野 寅次郎 拝