随筆


2020東京オリンピック開催決定に寄せて(1)

江尻 忠正

江尻忠正さんは1964東京オリンピックの競歩選手で、日本人最高記録でゴールされました。平成12年6月、2代目FWA会長に就任、2期4年間就任されました。2代目KWA会長に就任のためFWA会長を退任。このようにFWA、KWAの基礎を築かれた方です。江尻さんは毎月のウォークメイトに参加されていますので、マンツーマンでウォーキング指導をしてもらえます。なお、会報には一部掲載しましたが、この文章の全文をHPに挙げます。ぜひご覧ください。(広報)

 9月7日ブエノスアイレスでのIOC総会で2020年夏季五輪開催都市が東京に決定しました。前回1964年から56年目の再開催地に選ばれたことは、東京開催を強く望んでいた私にとって大変嬉しい結果で8日は感激の一日でした。TOKYO 2020 に向けて、世界に対して「素晴らしい国『日本』」を発信・披露出来る機会を充分に活かし、オリンピックの競技以外の場面でも多くの外国の人達に感動と憧れをもたらせる機会になることを願っています。

東京五輪で競技中の
江尻忠正さん

 前回のTOKYO 1964 大会の開会式典は10月10日、雲一つ無い快晴の下、国立陸上競技場で行われ、入場行進では全参加国選手団に続き、開催国日本選手団が日の丸とオリンピックマークの赤のブレザーに、白の帽子・ズボン・靴の揃いの制服での入場行進に競技場全体が大歓声に沸き、行進に参加したものとして、身の引き締まる感激と喜びを覚えた記憶が49年過ぎた現在も鮮明に蘇ってきます。
 大会は前半に水泳競技、後半に陸上競技が組み込まれ、私の参加した50km競歩競技は、大会終盤の18日に、陸上競技場から甲州街道の府中を折り返す片道25kmのコースで行われました。当日は前夜からの集中豪雨が続く中での競技となりました。スタート・ゴールの陸上競技場はコースの道路も水溜りで靴が滑り、コース取りに苦労するレースとなり最悪条件下での競技でした。身体はずぶ濡れと寒さで体温・体力が奪われ体調の最悪状態で競技場にゴールしたことを今は懐かしく思い出され、今でも台風や集中豪雨の予報を聞く度に当時を思い出し苦笑いしています。レース当日、豪雨の中多くの人達が沿道に群がり一所懸命に小旗を振って応援して頂いたことは、言葉で言い尽くせないものが有り感謝とお礼の気持ちは今でも忘れられないことです。

 私たち競技者にとっては競技場のメインポールに日章旗を掲げることが最大の望みです。最終日の陸上競技最終種目マラソンで円谷幸吉君がグランドでイギリスのヒートリ選手と競り合い、力尽きた状態で3位に入賞して希望を叶えてくれた時に、スタンドで抱き合って喜んだことが今も鮮明に思い出されます。円谷君とは遠征や合宿で共に励まし語り合った仲間、メキシコ大会を目指し頑張っていましたが、体調が優れず自らの命を絶ったことは競技仲間として非常に残念でなりません。四年毎の五輪開催時になると思い出され冥福を祈っています。
 私の出場した競歩競技は、外国、特にヨーロッパでは古くから人気競技で、各地で開催されています。しかし日本では馴染みがなく、1960年のローマ大会まで日本選手の参加は戦前のベルリン大会の1人だけでした。日本人には不向きと考えられる傾向があり、日本では日陰的な存在が続いていました。東京大会では競技種目のフルエントリーで参加が決まり、国内の競技関係者から競歩競技が注目されたので、将来の有望種目として期待されるようになり、選手層も厚くなり選手強化が進められる競技として人気が出始めました。
 当時は、マラソンや50km競歩のような長距離を長時間かけて競う競技では、選手の体力はもとより競技の基本技能習得と経験や精神力が必要と考えられる時代でした。若い世代の育成が進まず競技者年齢も30歳前後の選手の予選通過が多い状態で、オリンピック選手も30歳前後が多く選ばれています。当時私も30歳でした。
 東京大会以降競歩競技は日本人に適した競技と考えられるようになり、オリンピック出場枠の定着種目として認知されました。選手層も若い人が多くなり国際大会参加の定常化で、外国選手と対等な競技ができ、入賞者も出る実力が世界から注目されるようになり、競技の先輩として大変うれしく思っています。また、女子の種目にも多くの選手が参加するようになり、いよいよ将来が開けたかと思っています。(つづく)