紀行

 敦賀を歩く

2013年10月13日  池内淑皓

 2013年9月13日平成奥の細道ウオークの途次、敦賀市に立ち寄ったので町を散策した。
6:00新横浜始発の新幹線に乗り、名古屋で米原停車のひかりに乗り換えると、9時には敦賀の駅に降り立つことが出来た。秋だというのにめちゃくちゃ暑い、駅前のホテルに荷物を預け、まず気比(けひ)神社に向かう。

 敦賀と云う地名は、古事記には「角鹿(つぬが)」と記るされている、奈良時代大宝律令(701)の発令で「敦賀」と云う名が与えられた。
敦賀は、越前の国であるが近江、若狭に近く都の空気が濃く漂う。畿内から越前、越中、越後へ抜ける北陸道の要衝の地であり、琵琶湖の水運を利用した物資の集積地でもある、その街道の中央に気比神社が鎮座している。
 南北朝時代には足利と新田氏の戦いもあり、中世には信長の朝倉攻めが有名である。幕末には尊王攘夷を唱えた武田耕雲斎を首領とする水戸天狗党が、ここで囚われ処刑された場所でもある。
 町は正直に言って活気がない、若狭湾の先端美浜町に原子力発電所があるが、現在定期補修中だ。町の中央に大型ショッピングセンターが出来て、地元の商店が軒並み苦戦して元気がなくなってしまった。この町も衰退の一途をたどるのだろうか,写真で町を説明して行こう。

 
敦賀の町 北部に金ヶ埼城跡があり、西に気比の松原が広がる。国道8号線が北陸道である

敦賀の町並み 正面の道が北陸道(国道8号線) この道の突き当りに気比神社がある 
平和堂の大型ショピングセンターが町の活気を削いでしまった。 

「気比神社」 この鳥居は日本三大大鳥居(春日大社、厳島神社)の一つで国指定重要文化財に指定。  
大宝二年(702)文武天皇が社殿を造営と伝えられ、日本武尊、神功皇后、応神天皇等7柱を祀る北陸の総鎮守で、最高の格式を誇る。
芭蕉もここに立ち寄り、句を残している。また遊行上人(藤沢遊行寺)がここに滞在した折、神社の周りがぬかるんでおり遊行が海岸から砂を運んで水溜りを整備したという、戦乱で焼け、現在の社殿は昭和の建造。 鳥居は高さ11m、柱間7.45m

元禄二年八月芭蕉はこの地に滞在した、八月十四日夜気比神宮の参拝と仲秋の宵待ち月の観月をしている。    {月清し遊行のもてる砂の上}

「金ヶ崎宮」 金ヶ崎城祉中腹に建つ、延元元年(1336)北朝軍との戦いに敗れた後醍醐天皇の皇子恒良、尊良親王を祀る、ここは南北朝時代新田義貞がここに篭り、壮絶な戦いを繰り広げた。

 金ヶ崎城跡周辺地図
「金ヶ崎古戦場」 海抜80mの尾根上にある城跡元亀元年(1570)織田信長は朝倉氏と合戦の最中、浅井氏の裏切りで敗走、木下藤吉郎はここでしんがりを務め、信長は窮地を脱する。
木下藤吉郎はこの合戦を境に出世街道を歩むこととなる、彼にとっては人生を決める大きな出来事であった。


「永建寺」 応永二年(1395)の創建、曹洞宗の古刹、慶長二年(1579)この地に移された、本尊は釈迦如来本堂は寛保元年(1741)の再建

「水戸天狗党の処刑場と武田耕雲斎の像」幕末の元冶元年(1864)水戸藩尊王攘夷派の天狗党は家老の武田耕雲斎を首領として、京に上り朝廷に訴えんと中山道をたどり都に向かった、佐幕派の幕府は彼らを捕えようと追捕隊を向けるが敗退、加賀藩に入ると828名が降伏した。加賀藩では彼らを厚遇したが、幕府軍が到着すると、一転劣悪な鰊蔵に幽閉し厳重に監視した、劣悪な環境下で20名以上が病死した。元冶二年ここで処刑される。 

353人は打ち首となったが、罪を免れた110名者たちは流罪となり、罪を許された後水戸に戻り、壮絶な抗争を展開する、その結果明治の元勲は一人として水戸藩出身者は出なかった。

第一回の処刑は武田耕雲斎以下25人、第二回134人、第三回103人、第四回75人、第五回16人計353人がこの塚の下で打ち首となった。

「松原神社」  ここに鰊蔵があった、劣悪な倉庫に鰊と共に詰め込まれた彼らは、次々と病に倒れていった。 

「気比の松原」 日本三大松原の一つ(三保の松原(静岡)、虹の松原(佐賀)、地名の由来は奈良時代気比神社の社領あった事による。樹齢200年を超える松が12,000本もあると言う。 この山の向こうに原子力発電所が隠れている。