紀行



その4 袂ヶ浦〜田邊(七里ヶ浜) 間

八柳修之


開業当時の江ノ電の停留所は海岸の小動のあと、袂ヶ浦、日坂(現鎌倉高校前)、谷澤、七里ヶ濱(現峰ヶ原信号場)、峰の原、田邊(現七里ヶ浜)、行合となっていた。ここまでが旧腰越町の範囲である。袂浦から峰ヶ原信号までは134号線湘南道路沿いに進むことになる。訊ねるお店は全くなく想像の世界に入る。


袂ヶ浦停留所(たもと)

小動を出たあと、日坂(現鎌倉高校前)との間に袂ヶ浦停車所があった。袂のような浦、浦とは入江、だが海辺の意にも使う。調べると「腰越ヨリ江嶋ヘノ直道 南へノ出崎ノ入江ノ濱 袂ノ如クナル地ヲ云ウトナシ」(鎌倉日記 徳川光圀歴覧記)また、太宰治が1930年(昭和5年)小動の袂ヶ浦で心中事件を起こし、西300mにあった恵風園胃腸病院(結核療養所であった)に運ばれ一命をとどめたとある。袂ヶ浦停留所は1918年6月(大正7)恵風園前停留所と改称されたとあるから、バス停もある恵風園下、腰越4号踏切辺りにあったものと推定される。
日坂停留所 (現鎌倉高校前に改称)
日坂は山側の聖テレジア病院前辺りから、134号線鎌倉高校駅前信号に下る約100m位の坂で、ロケなどによく使われる坂である。
新田義貞が鎌倉攻めのとき、この坂を通って進んだため新田坂と名付けられた。
坂は南に向かって日がよく当たることから、その後、日の坂と書いて「日坂」と呼ばれるようになったとか。鎌倉高校は1951年(昭和26)に開校され、1953年(昭和28)に日坂停留所は鎌倉高校駅前と改称された。
写真は鎌倉高校1号踏切地点から撮影、人気スポットである。関東の駅百選に選ばれている。



谷澤停留所

現在の鎌倉高校前と峰ヶ原信号所との間にあった筈だが、線路沿いに痕を見つけることは出来なかった。江ノ電本社に問い合わせ調べてらったが、記録はないという。海水シーズンだけの停留所だったのかもしれない。谷澤停留所は1915年(大正4)に廃止されている。

七里ヶ浜停留所(現峰ヶ原信号所)

開業当初、現在の峰ヶ原信号所がある場所に七里ヶ浜停留所があったが、大正年間に廃止され、現峰ヶ原信号所になった。ここで藤沢方の電車と鎌倉方からの電車が交差する。早く着いた方が長く待つ。当たり前だ。資財置き場にもなっている。交差する電車は鉄ちゃん撮影ポイント。

峰の原停留所

開業当初、別に鎌倉寄りに峰の原停留所があったが、駅の痕跡は分からない。峰ヶ原信号所の前にバス停峰ヶ原があり、ますます分からなくなる。そもそも七里ヶ浜駅が現在の場所に新設されたのは戦後のことである。電車は峰ヶ原信号所を出ると、間もなく自販機がぽつんと一台ある地点から134号線沿いから離れ、高台となり住宅地の中、線路は道路と同じレベルを走る。柵もない。アマルフィの裏の駐車場から山側に上る石段があるから、この辺りかもしれないが想像にしかすぎない。

田邊停留所 (現七里ヶ浜駅)

田邊停留所は、現七里ヶ浜駅の場所にあった。田邊の名は、近くの田辺公園にその名を留めている。行合川の上流に霊光寺には日蓮の雨乞い池として知られる田辺ヶ池がある。
田邊停離所は1915年(大正4 )行合駅に、1951年(昭和26)七里ヶ浜駅に改称されている。現在の駅舎が竣工したのは1997年(平成9)のことである。
行合停留所 

行合の地名の由来は、日蓮が龍ノ口の刑場で処刑されんとするとき、突然光る物体が現れ処刑が中止された事を、鎌倉に知らせる使者と日蓮の赦免を知らせる鎌倉からの使者が出会った所を行合と呼ぶようになったという。
電車は七ヶ浜駅を出てすぐに古い行合橋を渡り大きく右に曲がり再び134号線沿いに出る。セブンイレブン七里ガ浜店の裏に江ノ電施区保線班・変電所があるので、ここに当初の行合停留所があったものと推定される。
行合、名前と由来がよいので今回はここまでとする。
参考資料:「神奈川の歴史散歩」(山川出版社)、江ノ電HP