紀行

近江長浜を歩く(1)

石田三成生誕地、姉川の合戦、小谷城跡


平成25年11月7日    池内 淑皓

 2013年10月11日平成奥の細道ウオークの途次、長浜市に立ち寄ったので町を探検した。
前もって長浜観光協会(0749-65-3425)に連絡して資料を取り寄せ、更に観光協会でレンタサイクルを予約することが出来たので、非常に効率よく街歩きを楽しめた。
 6:00新横浜始発の新幹線に乗り、名古屋で米原停車のひかりに乗り換えると、8時過ぎには長浜駅に降り立つことが出来た。私のために8時からお店を開けて待っていてくれた、嬉しいね! おまけに荷物も無料で預かってくれると言う、幸い電動自転車が借りられたので一日予約する。
 まずは長浜を紹介しよう、琵琶湖のほとり姉川の扇状地勢の沖積平野で、東端に海抜300m前後の横山丘陵が走る。
山裾には茶臼山古墳、垣籠古墳が存在することから、長浜は古代から栄えていた、ここには古代条理制の地割が残っている。
 中世には京極氏の領土であったが、羽柴秀吉は天正元年(1573)織田信長からこの地を賜り、京極氏の古城を改修して長浜城を築く、本能寺の変のあと信長の後継者として大阪に移ってからは柴田勝豊、山内一豊、内藤信成らが城主となったが後に廃城となった。井伊直弼は彦根城を築くに当たり、長浜城の石を持ち去ったため、秀吉の遺構は殆ど失われた。
 地図を頼りに東へ、第一番目に石田三成生誕の地に向かう、写真を見ながら町を歩いてみよう。
             「長浜城下町の復元図」  
秀吉治世下の地図で上部に長浜城が見える、町割りは古代律令制のなごり、(パンフレットから引用) 条里制がはっきり見える。湖は琵琶湖。

             JR長浜駅周辺図」
地図の左、緑の部分は豊公園、上隅に長浜城跡があり、現長浜城歴史博物館


         長浜市周辺図」(観光パンフレットより引用)
駅を中心に右(東)へ石田三成出生地、茶臼山古墳、姉川古戦場、浅井歴史民俗資料館、姉川古戦場、北へ小谷城跡、南へ国友鉄砲の里資料館、神照寺、南へ総持寺等見所多し。

                                      
            「石田三成生誕の地」(1560-1600)
石田公民館前に石田治部少輔出生地と刻んだ石碑が建つ、永禄3年この地で生まれた、幼名「佐吉」父正継は教養を積ませるべく観音寺(家から4km)に寺小姓として住み込ませた


         「JR長浜駅前に建つ秀吉と石田三成(佐吉)」
佐吉が秀吉にお茶を差し出しているところ佐吉が10歳の時羽柴秀吉が寺を訪問し佐吉に会う、お茶を所望し佐吉は初めにぬるいお茶を出し、次に暖かいお茶を出し、最後に熱いお茶を出したと云う、秀吉は歓喜して佐吉を小姓に取り立てた。その後の三成の活躍はご存じのとおり、関ヶ原の戦いは三成が治部小輔(文官)であるから負けたのだ。もし武官である兵部小輔(武官)であったら勝っていたに違いない

「石田三成公一族及び家臣団の供養塔」  石田家の近くに「石田神社」があり、奥に石田一族と家臣団の供養墓がある、墓守がそばにいていろいろ説明をしてくれた、石田町で三成の悪口を一切言ってはならないと釘を刺された。

             「姉川合戦古戦場跡」  
三成生誕地から自転車で20分、茶臼山古墳の前を通り、姉川に突き当たると古戦場がある、元亀元年(1570)6月28日浅井長政、朝倉義景連合軍と、織田信長、徳川家康、木下藤吉郎の軍勢がここで激突、両軍合わせて5万の兵が戦った。

 
姉川合戦布陣図
徳川軍の榊原康正が側面に回り、朝倉の横腹を突くことで戦いの勝敗が決した、浅井の小谷城は堅固であるから容易に落とせない、そこで信長は茶臼山古墳のある横山城を攻めて彼らを平地におびき出して戦いを挑んだ。

「浅井歴史民俗資料館蔵の血染めの鎧」
 合戦当時そのものだと言う、しみは血痕


          「小谷城案内図」  国指定史跡
永生13年(1516)浅井亮政の築城、京極氏の根本被官であったが大永3年(1523)京極家の内紛に乗じて浅井亮政が主家を攻め、実権を握り湖北地方に君臨するようになった。天文8年(1539)子の久政、次いで長政が家督を継いだ。

         
                「小谷城跡」
織田信長は越前への進出の足がかりに障害となる浅井氏と和睦すべく、永禄4年(1561)妹のお市を長政に嫁がせる。信長の意に反して浅井は朝倉を支持したために姉川の合戦に発展した。

 「出丸跡」      「お茶屋跡」
名は優雅であるが郭の中心に位置し、軍勢の集合地であったらしい


「本丸跡」
ここでお市は 茶々、お初、小督(おごう)を生んだのだろうか
            「小谷城 模式図」  
井戸跡、馬洗い池、馬場跡、首晒し石(この石は現存)、黄金門の奥が本丸このように堅固な城であったから、平地に出なかったら負けなかったに違いない。

 「落ち延びるお市とお茶々(淀君=秀頼を生む)、お初(京極高次夫人)、小督(徳川秀忠夫人=家光を生む)  浅井民族資料館にて

          桜馬場跡にたつ 「浅井氏及び家臣供養墓」  
記念写真を撮る所ではないのだけれど、ここまで来たよと云う意味で一枚パチリ。

小谷城戦国歴史資料館から小谷城跡本丸まで尾根道を歩いて往復一時間以上かかる、尾根の途中には松茸林があり、立ち入り禁止の部分がある、砦の一つひとつをゆっくり訪ねた、特に馬をお米で洗って水があることを敵に示した馬洗いの池は、当時のまま石垣の囲いが残っている。

 ここから先午後は、自転車を利用して国友鉄砲の里や寺院等を訪ねる。 つづく