紀行



その5 田邊(七里ヶ浜)・極楽寺間

八柳修之

開業当時の江ノ電の停車場は、田邊(七里ヶ浜)のあと、行合、追揚、姥ヶ谷、音無橋、稲村ケ崎、砂子坂、極楽寺と続いた。その後、昭和8年頃の江ノ電沿線案内図によると、残っていたのは行合、姥ヶ谷、稲村ケ崎、砂子坂のみであり、そして現在は稲村ケ崎のみである。


追揚停留所

134号線行合橋のセブンイレブン七里ヶ浜店裏にあったと思われる行合停留所を過ぎると、電車は再び134号線と併行して海沿いを走る。
追揚停留所はこの行合停留所と姥ヶ谷停留所の間にあったが、痕跡は特定できなかった。ただ、七里ガ浜高校正門前を通る七高通り坂と線路が交差する七里ヶ浜2号信号がある。
ここには地下通路があり海に出ることが出来る。藤沢方には広いスペースがあり江ノ電の資財置き場となっている。古い写真を見ると、廃車を利用したキャンプカーが点在し夏場は臨時停車所があった場所らしい。


姥ヶ谷停留所

この停留所跡は、金子 晋「江ノ電   今昔漫筆」の中に、江ノ電の線路をはさんで、有馬(生馬)家の斜め向かいに老人ホームがあったとある。有馬家は現在、上智大学の施設に、老人ホームは1921年(大正4)に設立された基督教役者鎌倉静養館で現在もある。この七里ヶ浜8号信号辺りの地点が姥ヶ谷停留所跡であろう。海側へ下りると姥ヶ谷バス停がある。


音無橋停留所

音無川に架かる大正15年2月成の音無橋があり、橋の手前左側に海彩(うなじ)という料理屋への私設踏切にその痕跡があった。
音無橋から見る景色はちょっとした景観である。橋を渡って右側に見える洋館は、聖路加看護大のセミナーハウス、新戸稲造の邸宅があった所とか。

稲村ケ崎駅

稲村ケ崎停車場は1904年(明治37)開業、1922年(大正11)に現在の位置より東側にあったという。
電車の交換駅である。

砂子坂停留所

稲村ケ崎駅から線路沿いを鎌倉方に3分ほど進むと、信号があり線路際に「肉の稲村亭」という料理屋がある。道なりに左へ住宅地を進むと、「日蓮上人袈裟掛の松跡」という石碑がある。その先稲村ケ崎2号踏切を渡ると、再び電車と併行した道となる。

道沿いに高橋という米屋さんがあった。若いおかみさんに伺うと、袈裟掛の松の碑の横から、山側に上る急な坂道が砂子坂という。だが、かつて砂子坂という停留所があったことはご存知なかった。前述の金子氏の著の中に「袈裟掛けの松の小坂の下った踏切には番小屋があって、電車の上り下りに合わせて遮断機をおろし旗を振っていた」とあるから、開通当時はこの稲村ケ崎2号踏切辺りの空間に砂子坂停留所があったと推定される。砂子坂停留所・極楽寺駅間の距離が長いのが気になるが、一時、車庫前停留所があったというから納得できようか。

極楽寺駅


極楽寺川に架かる鎌倉十橋の一つ針摩橋(はりすり)の碑がある五差路を左折すると、江ノ電極楽寺電車車庫工場に出る。一時、車庫前停留所があった。
極楽寺駅は1904年(明治37)開業、駅舎は木造で関東の駅百選に選ばれている。金子氏によると、極楽寺の駅が現在の位置に定着するまで一二度の変動があり、かつてこの辺りに沼地があったという。極楽寺駅は関東の駅百選、駅前の赤い丸型ポストと調和してよい。駅を出ると全長209mのトンネル、レンガ造りの坑門で桜橋から見られる。藤沢方は「極楽洞」、鎌倉方「千歳洞」と呼ぶ。



参考資料:金子 晋「江ノ電今昔漫筆」江ノ電沿線新聞社、 江ノ電HP
「鎌倉散歩24」山川出版、  聖路加看護大学HP