紀行
国友鉄砲の里、舎那院、長浜八幡宮、
大通寺、豊国神社、長浜歴史博物館 等
平成25年11月18日 池内 淑皓 |
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2013年10月11日長浜を訪れた私は、午前中石田三成生誕の地、姉川の合戦古戦場、小谷城跡を訪ねた。午後は「国友鉄砲の里」を見学のあと、長浜市内の名所旧跡等を夕暮れまで訪ね歩いた。 天文12年9月23日(1543)(諸説あり)種子島に二丁の鉄砲が伝来する、弓に代わる強力な武器として重要視される事となる、特に織田信長はその銃器の有効性を見抜き、姉川の合戦(元亀元年(1570))で使用したとされる。天正3年(1575)長篠の戦では国友の鉄砲500挺が使われたという、武田軍の騎馬隊が壊滅したことは良く知られている。 国友への鉄砲持ち込みは、将軍足利氏から伝わったと言われている。鉄は主として播磨、出雲の「たたら」を使用した、当時は70軒の鍛冶屋と500人を超す職人が居たと云う。 火薬はどこから調達したのだろうか、黒色火薬は硫黄、炭素(墨の粉)、硝石の混合物だが、硫黄は温泉地に行けば手に入る、炭素は墨の粉だ、硝石の作り方が問題となる(稿を改めて論じたいが、ヒントは合掌造りで有名な五箇山にある)。 信長、秀吉、家康は国友の鉄砲技術を高く評価し独占的に保護した、前置きが長くなったが、写真で町を歩こう。 |
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「国友鉄砲の里資料館」 | 「鉄砲を造る道具」 銃身は真金を使い、瓦金を鉄棒に荒巻してから葛巻する、出来あがった素筒を八角の形にしてねじを切るこの「ねじ」の発明で技術が飛躍的に発展した。 |
資料館の中には鉄砲がずらりと並ぶ、脇差鉄砲、短筒、中筒、大筒もある。 | |
「総持寺」 町外れにある真言宗の古刹、天平年間(729-49)に行基の創建、姉川の戦いで焼失したが秀吉が再興し、近世には彦根藩主井伊家の保護を受け、常法檀林所(学問所)として学僧で賑わった。 この仁王門は寛永12年(1635)の造立で文化財、寺宝に鎌倉時代作の愛染明王がある(国重文) |
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「舎那院の護摩堂」 室町時代の建立 |
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「長浜八幡宮」 延元元年(1069)京都石清水八幡宮の神霊を勧請した、近江一帯の諸武将たちの崇敬を受けて栄えた、羽柴秀吉が社殿を修理している。”長浜曳山祭り”は国の無形民俗文化財に指定。 |
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「妙法寺 豊臣秀勝の墓」 この妙法寺は、小谷城下から秀吉の命でこの地に移された、豊臣秀勝の名は、三名いて一人は信長の四男を秀吉の養子として羽柴秀勝(於次秀勝)としたが、文禄慶長の役で朝鮮出兵中異国で病死、二番目の秀勝は秀吉の甥で、後養子となった小吉秀勝。 そして妙法寺に眠る秀勝は、石松丸秀勝と呼び、長浜城で側室に生ませた子、天正4年6才で病死しここに埋葬された、発掘により装飾が施された石囲いの墓石が発見され、安土桃山時代の大名一族の墓石であることが判明した。 |
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「大通寺」 開基は真宗大谷派の初代教如と伝える、慶長七年大通寺と号した、この本堂は国重文で京都伏見城の旧殿舎と言われ、慶長九年に家康が教如上人に送ったもの。 |
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「知善院」 会議は不明だが秀吉が寺領を寄進している、本堂は室町時代の造りで文化財、この表門は長浜城の旧裏門を移築したと伝える、観音堂には国重文の11面観音坐像がある。 | |
「豊国神社」慶長五年、町民達が善政を布いた豊臣秀吉の遺徳を偲んで造立したもの | |
「豊臣秀吉像」 | |
「長浜城跡、(長浜城歴史資料館)」 右隅の標石は秀吉在城時の長浜城天守閣跡長浜城は本能寺の変(1582)のあと、秀吉は摂津の国(大阪)に移り、柴田勝家の長男柴田勝豊、山内一豊、内藤信成らが城主となったが信成の子信正が元和元年(1615)摂津高槻に転封後廃城となった。井伊直政は彦根城築城に際して長浜城の石垣を運びだしたという。 |
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長浜城天守台から見た夕暮れの琵琶湖、 対岸は比叡の山並み |
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秋の日はつるべ落としに似て、すぐ日が暮れてゆく、電動自転車のおかげで長浜の町を幅広く 探検出来た、まだまだ記載したい名所旧跡もあったが、日が暮れたのでこの辺りで宿屋に帰ろう。(完) |
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