紀行
東京の富士塚めぐりー5
平野 武宏 |
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都心の区にも富士塚が残されていました。 千代田区に残る唯一の富士塚は若者で賑わう秋葉原駅からすぐの神田川沿いにありました。(高さは伝えられている高さ、最寄り駅は代表例です) |
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[千代田区] 神田柳森富士 柳森稲荷神社内 神田須田町2-25 最寄駅 JR秋葉原駅中央改札口 |
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中央改札口から高架ガード手前の小路を左折し、神田川を渡るのが近道。 ひょうきんな姿の狸が鳥居の両側に鎮座の柳森稲荷神社(下写真左)の入り口右側に富士塚があります。延宝8年(1680年)築造。明治以降に一度壊され、昭和5年(1930年)再築。昭和35年(1961年)富士講がなくなり、破却されたが、余ったボク石(溶岩)を積み上げ山にしたとのこと(下写真右)高さ約3m。 |
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中央区にも唯一残る富士塚がありました。 | |
[中央区] 鐡砲洲富士 鐡砲洲稲荷神社内 湊1-6-7 最寄駅 JR八丁堀駅 |
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寛政2年(1790年)築造。その後、数度移築。高さは約6m。 説明板には「江戸湊の入り口に鎮座する神社として寛永元年(1624年)頃、稲荷橋南東詰に遷りましたが、明治元年(1868年)現在地に移転し、今日に至っている。関東大震災で被害を受けた境内は昭和10年(1935年)より復興・整備された」と記載。山開きは7月1日。 |
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社殿 | 富士塚入口 |
富士塚入口には「危険だから登らないでください」と表示あり。 周りから富士塚の写真を撮りました(写真上左右) ここは埋め立て地(築地)で地名の由来は地形が細長く鐡砲の形に似ていたからだという説がある。一方、寛永年間(1624〜44年)にオランダ人が大砲(大筒)数門を幕府に奉じ、当時はまだ無人だった、この地で試射をしたので鐡砲洲との説もある。この大砲は島原の乱の鎮圧で使われたとのこと。 |
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大田区には三つの富士塚が残っていました。 |
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[大田区] 多摩川富士(田園調布富士) 多摩川浅間神社内 田園調布1-55 最寄駅 東急東横線 多摩川駅南口 |
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東横線が多摩川を渡る時に山の上に神社が見えます。 多摩川台地の古墳の上に神社を建て、それをそのまま富士山に見立てた富士塚にしたようです。古墳は5世紀末から6世紀初頭のもので、神社の創建は「鎌倉時代の文冶年間(1185年〜90年)と伝えられています。 源頼朝が豊島郡滝野川に出陣の折、夫の身を案じ、後を追ってきた妻政子は草鞋の傷が痛みだし、ここで傷の治療をすることになり、逗留のつれづれに、この丘で富士山に手を合わせ、夫の武運長久を祈り、身に着けていた正観世音像を祀ったところ村の人達がこの像を富士浅間大菩薩と呼んだという。これが神社のおこり」と説明板に記載。別名 田園調布富士 高さ約10m。 神社の故事に合わせて例祭は6月1日。山頂までの写真です。 |
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登り口 | 大天狗・小天狗碑 |
食行身禄の碑(勝海舟書) | 山頂の浅間神社 |
羽田富士 羽田神社内 本羽田3-9-12 最寄駅 京浜急行羽田線 大鳥居駅 |
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天保5年(1834年)築造。明治初年改造。産業道路の大師橋際の羽田神社(下写真右)、富士塚は拝殿の左にあり(下写真左)木花講により築造。高さ約5m。「崩落につき登山禁止」と表示。 山開きは7月1日。ご利益は安産・健脚とのこと。 長い時間祈っていた職人風の若者の姿が印象的でした。寅次郎、きっと妻の安産を祈っていたのだと勝手に解釈した。 |
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富士塚 | 奥宮 | ||
穴森富士 穴森稲荷神社内 羽田5-2-7 最寄駅 京浜急行羽田線 穴森稲荷駅線 |
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「羽田の穴守さん」の創建は「文化文政の頃(1818年)鈴木新田(現の空港内)開墾の際、沿岸の堤防がしばしば激浪の為、腹部に大穴を生じ、これにより海水が浸水した。村民が相計り、堤上に稲荷神社を祭ったところ風浪の被害なく五穀豊穣したとのこと。風浪の害より田畑を守り給う稲荷大神 穴守稲荷大神として尊称。 昭和20年(1945年)の終戦に臨み羽田空港の拡張のため従来の鎮座地から現在の地に遷座した」と説明板に記載。高さ約3m。 |
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社殿 | 社殿右側奥の登り口と奥宮 | ||
品川区に残る唯一の富士塚は京浜急行線の車窓から見えました。 |
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[品川区] 品川富士 品川神社内 北品川3-7-15 最寄駅 京浜急行線 新馬場駅 |
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品川神社(写真下右)は平安時代末期の文冶3年(1187年)に源頼朝が海上交通安全と祈願成就を祈り創祀、以降徳川家光の庇護を受け、明治天皇により准勅祭神社(都内十社の神社)に定められた由緒ある神社で、東海七福神の大黒天です。 品川富士は明治2年(1869年)地元の富士講信者たちにより築造。神社に向かう上りの石段の左の急斜面に造られた富士塚です。大正11年(1922年)第一京浜道路建設の時に台地が削られ、西に数十メートル移動して現在地へ。 |
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京急線から見る富士塚 | 社殿 | ||
神社にはウォーキング例会で訪れましたが、富士塚をじっくり見るのは初めてです。登山口は神社本殿に向かう石段の中ほどから左折、すぐ一合目に入る。荒々しい岩肌につけられた登山道を山腹に点在する石碑を見ながら登る。昔は品川の海が見えた山頂からの展望も良い。下からは約15m(富士塚は約5m)7月1日に近い日曜日には講員一同が白装束で浅間神社神前で「拝み」を行い、はだしで富士塚に登る富士塚開きが行われるとのこと。 「品川ネギ・品川かぶは大阪からの入植者により種が持ち込まれ、品川の地で江戸の野菜として栽培された」と境内の説明板に記載。 |
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登山道入り口 | 二合目洞窟内の役行者像 | ||
山頂を望む | 山頂から第一京浜を望む | ||
京急線が走る山頂からの眺め | 裏側にある浅間神社 | ||
目黒区・杉並区・世田谷区にも富士塚および跡が残されていました。 |
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[目黒区] 目黒元富士跡 上目黒1-8 最寄駅 東急東横線 中目黒駅 |
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文化9年(1812年)に築造。江戸で三番目に古い富士塚で別所富士とも言われた。 広重の「名所江戸百景」に描かれている。 上目黒と青葉台の境を通る目切坂上で12mの高さを誇っていたが、明治11年(1878年)に取り壊され、今はマンションとなり、前に説明板が立っていた。 |
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目黒新富士跡 中目黒2-1-23 最寄駅 東急東横線 中目黒駅 |
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文政2年(1819年)に築造、新富士と呼ばれ、中目黒の別所坂頂上付近にあった。 千島を探検した近藤重蔵が別荘庭園内に構築した築山で近藤富士とも言われ、優美な姿で人気があった。その人気故に凄惨な事件が生じた。完成後7年後の文政9年(1826年)利害関係から重蔵の長男が隣家に住む7人を殺害。近藤家はお断絶。 長男は八丈島に流罪。平成3年(1991年)のマンション建設工事で新富士の遺構が発見されたが埋め戻されたとの説明板があった。 |
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目黒富士 上目黒氷川神社内 大橋2-16-21 最寄駅 東急田園都市線 池尻大橋駅 |
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神社は玉川通り(国道246)に面した場所にありました。目黒元富士の取り壊しにより、石祠や石碑がここに移されたとのこと。 昭和21年(1977年)神社の左側の斜面に富士登山道が造られ目黒富士と言われるようになった。山開きは7月1日。 山頂までの号目を表示の白杭はまだ新しいものでした。 |
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富士塚登り口 | 登り道 | ||
山頂 | 山頂にある社殿 | ||
[杉並区] 八幡宮富士 井草八幡宮北駐車場内 善福寺1-33-1 最寄駅 JR西荻窪駅よりバス利用 |
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善福寺で下車。小学校の先にあり。富士塚は八幡宮境内から移設したため原型を残していない。鳥居の奥に宮祠、その後ろに高さ約2mの塚。 |
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[世田谷区] 松原富士 扶桑教 大教庁内 松原1-7-20 最寄駅 京王線 明大前駅 |
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明治6年(1873年)散在していた富士講を結集して立ち上げた宗教法人神道 扶桑教の大教庁(写真下左)敷地内の右側に富士塚が(写真下右)ありました。入口の門は施錠されており、外から写真を撮りました。 |
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次回は映画「男はつらいよ」寅さんのふるさと葛飾区の富士塚を巡ります。 |
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平野 寅次郎 拝 |