紀行

寅さん歩 その9

東京の富士塚めぐりー6


平野 武宏

映画「男はつらいよ」の寅さんのふるさと葛飾区にも富士塚が残っています。  
(高さは伝えられている高さ、最寄り駅は代表例です)

[葛飾区]
立石富士 熊野神社内 立石8-44-31 
      最寄駅 京成押上線 京成立石駅
創祀は平安時代中期の長保年間(999〜1003年)陰陽師 安倍晴明の勧請と伝えられている。この辺りは古墳群をはじめ、霊石として知られる「立石」があり、葛飾区で最も古い神社の一つで安産と健脚がご利益とのこと。
寅次郎、健脚を祈願しました。
富士塚(写真下左)は社殿手前にありました。コンクリートのスロープを行くとすぐに山頂(写真下右)高さ約1.5m。
境内の説明板には「このあたりでは本田ウリが盛んに栽培され、舟で近くを流れる中川を下り、江戸に運ばれていた。本田ウリは本所ウリに比べ大ぶりで格段に美味しく、熟すと銀白色になり銀マクワと呼ばれた」と記載。

鎌倉八幡神社の富士塚 鎌倉4-15-24  
             最寄駅 北総線 新柴又駅

富士の名はついていませんでしたが、立ち寄ってみました。柴又街道筋に鎮座の鎌倉八幡神社社殿(下写真右)の左側に6段で山頂へ行ける富士塚(下写真左)がありました。
帰りは同じ柴又街道筋にある映画の寅さんの実家のだんご屋(写真右)に立ち寄りましたが、あいにく寅さんは長い旅に出ていて不在でした。

金町富士  葛西神社内 東金町6-10-5 
       最寄駅 JR金町駅

香取宮と称し元暦元年(1184年)下総国香取神宮の御分霊を勧請し、葛西三十三郷の総鎮守として創祀したものと伝えられている。
「和歌ばやし」は後に「葛西ばやし」として江戸市中をはじめ近郷一帯の祭礼時に「お囃子」として流行。昭和28年(1953年)には郷土芸能として東京都の無形文化財に指定されました。江戸川改修で現在地に移築の富士塚は社殿右奥にありました。高さ約2.5mで登れました。

飯塚富士
 富士神社内 南水元2-1-1    
     最寄駅 JR金町駅北口からバス利用
行き方のバスがわからず、水元の名前をたよりに、ウォ―キング例会で訪れた水元公園から歩きまわって探しました。中川の土手にあるという富士神社は工事撤去。高さ約5mの富士塚は無残な姿に。工事は平成26年3月までと告知あり。
前の道には「富士神社入口」の金町駅行のバス停がありました。

天祖神社の富士塚   新小岩4-40-1 
            最寄駅 JR新小岩駅

富士の名は付いていませんが、伊勢神宮の神領にして葛西御厨の一村と称される天祖神社の境内左に6段で登れる富士塚がありました。
  

 隣の荒川区にも富士塚が残っています。

[荒川区]

白髭富士
  石浜神社内 南千住3-28-58 
       最寄駅 JR南千住駅
 

明治通りの隅田川に架かる白髭橋西詰にありました。
社殿(写真上左)の右側に高さ約3mの富士塚(写真上右)がありました。石浜神社は神亀元年(724年)創祀され、朝日新明宮と称し、伊勢詣での代わりに参詣者で賑わったとのこと。白狐神は隣にある真先稲荷で、奥宮の狐穴から出現する「お出狐」で有名とのこと。脇を流れる隅田川の「隅田の渡し」は平安時代の書物に書かれた交通の要衝とのことです。
茶屋があり吉原の遊客もよくここで田楽を食べたようで当時の川柳で「田楽で帰るのが ほんの信者なり」と詠まれています。

 
南千住富士  天王素盞雄神社 南千住6-60-1 
       最寄駅 都電荒川線 三ノ輪橋駅

元治元年(1864年)丸瀧講により「瑞光石」(祭神が翁に姿をかえて降臨した奇岩)のある小塚上に浅間大社を祀り、富士塚(写真右)としたと伝えられ、当初の形体がよく残されているそうです。日光街道の千住大橋手前にある立派な神社(写真左)。高さ約4mの富士塚は登ることはできませんでした。7月1日が山開き。
     


松尾芭蕉もここから奥の細道に出立しており、境内には句碑がありました。
松尾芭蕉の句碑(奥)と手前の芭蕉の言葉の説明板には「ここでの逗留の為、使わない笠と杖を置いてある」と記載されてありました。

[寄り道]  富士塚チャーハン!?

お昼に立ち寄った荒川区役所近くの「光栄軒」チャーハンを完食。富士塚チャーハンと命名。
これで普通盛り(米2合半使用)550円高さは約8cm。
 
江東区に残る富士塚です。

[江東区]

亀戸富士(本所富士)
  亀戸浅間富士神社内 亀戸9-15-7
            最寄駅 JR錦糸町駅よりバス利用

小岩駅行にバス停「浅間神社」がありました。案内板によると「大永7年(1527年)創建。この辺りは高貝洲と呼ばれ、日本武尊が東征した時に海が荒れ狂ったため、海を鎮めようと入水した妻の弟橘姫の笄(こうがい)がここに流れ着いたことによるものです。のちに景行天王(第12代と伝えられる)がその地に笄塚(こうがいつか)を建てたとされています。
(笄とは女性が身に着ける装飾具・結髪具です)
この笄塚の場所に富士塚が築かれ江戸時代には多くの信仰を集めました」と記載。社殿の左に高さ約1mの小高い盛土があり、その上には社殿があったとのこと。今まで見た富士塚とは少し形が違っていました。
     
上の写真の階段を登ると山頂 脇から見ると草の中に猿の像

深川富士 富岡八幡宮内 富岡1-20-3
      最寄駅 都営大江戸線・東西線 門前仲町駅

富岡八幡宮には何回かウォーキング例会で来ましたが、富士塚の存在は知りませんでした。社殿の左後ろに富士浅間神社(写真右)・富士塚(写真左)がありました。高さ約1m。案内板によると「享保7〜8年(1722〜1723年)築造文政2年(1819年)再興の約6mの富士塚は昭和30年(1955年)頃まで社殿裏に現存していた」と記載。今あるのは新富士。
   

砂町富士 富賀岡八幡宮 南砂7-14-18 
      最寄駅 東西線 南砂町駅

「深川富岡八幡宮の本宮としてまた砂村総鎮守としてその創建は古く藤原鎌足の孫、藤原豊成が下総守に任じられ下向のみぎり、天平勝宝元年(749年)創立された古社」と案内板に記載。
富士塚は天保4年(1833年)までに山吉講により築造
30mほど北にありましたが、昭和8年(1933年)の水害で形が崩れ、昭和37年(1962年)に現在地に移築されたとのこと。高さ約6m。「落石の恐れあり」で登れませんが周辺を一回りできました。
     

[番外]
 国指定重要有形民俗文化財「長崎富士」に登頂!

富士塚-3で訪れ、なぜ開放しないのかと文句を言った国指定重要有形民俗文化財「長崎富士」に登ることが出来ました。11月の文化財ウイークで豊島区教育委員会による史跡めぐりに参加した際の貴重な写真です。

 浅間神社も開扉  富士塚入口も開錠
参拝の最初は胎内からとのこと
天狗像(兄弟とのこと)
山頂を望む  中腹の石像群
五合目小峰神社碑 八合目烏帽子岩
  
  山頂の祠(左)と大日如来像(右)           山頂から下を望む

いよいよ東京23区の富士塚めぐりも最終コーナーで、多くの富士塚
     が残っている足立区・江戸川区を巡ります。次回は富士塚の残存数が
     第二位の足立区です。


平野 寅次郎 拝