紀行

寅さん歩 その9

東京の富士塚めぐりー7


平野 武宏

いよいよ富士塚めぐりも最終コーナーを迎えました。
まずは都内23区で二番目に多い12基の富士塚が残っている足立区です。区内に広く点在しており、巡る順を熟考しました。
マイコースづくりも「寅さん歩」の楽しみのひとつです。
      
以前に説明しましたが、「寅さん歩」とはペンネームの「平野寅次郎」の散歩の意味で、かっての地井武男の「ちい散歩」に似ていますが、「寅さん」の「さん」と「散歩」の「さん」をひらがなでダブラセています。「ちい散歩」を継承している気分ですが、「寅さん歩」にはTVカメラは同行していません。
      
隅田川にかかる千住大橋を渡ると足立区で、さらに千住新橋で荒川を渡り、区の中央部を北に埼玉県草加市へ抜ける日光街道沿いの地域に多くの富士塚が残っていました。2回に分けて、まずは区の東西を走る環七通りから南の地域の富士塚を紹介します。

 (高さは伝えられている高さ、最寄り駅は代表例です)


 [足立区]

千住宮元富士 
千住神社内 千住宮元町24-1 最寄駅 JR北千住駅

北千住駅西口を出て、千住警察署から日光街道の交差点を横切り直進、足立区最古で恵比寿天を祀る千住神社(写真左)に到着。
説明板には「千住に集落が形成れ始めた延長4年(926年)伏見稲荷より勧請、稲荷神社を創立。
源義家も奥州征伐の際、ここで陣営したとのこと。
弘安2年(1279年)武蔵の国一之宮氷川神社の分霊を勧請、氷川神社を創建。二つの神社となり西の森と呼ばれたそうです。
明治5年(1872年)合祀し、名前も西森神社となり、大正4年(1915年)千住神社と改称」と記載。
社殿の右に富士塚(写真上左右)があり。大正12年(1923年)丸参千住同行が築造、翌年の大震災で崩壊、昭和11年(1936年)再築。
登り口には「登拝は7月1日のみ」との表示あり。高さ約4m。

千住柳原富士 柳原稲荷神社 柳原2-38-1 最寄駅 JR北千住駅

北千住駅東口を出て、学園通りを右折、東学園通り先の交番を左折、桜並木の柳原商店街を行き、荒川土手の手前を左折し到着(写真左)説明板によると「創建は詳らかでないが古文書には慶長4年(1599年)の鎮守とあり」
                  
社殿の右に昭和8年(1933年)柳原富士講により浅間神社を勧請、富士塚(写真下左右)が築かれたとのこと。高さ約2m。
門が閉まっていて、門越しに撮影。当社に奉納される江戸期より伝わる民俗芸能「柳原箕輪囃子」は区登録無形文化財とのこと。

大川富士(川田富士)
 大川町氷川神社内 千住大川町12-3 
             最寄駅 JR北千住駅

千住4丁目千住新橋手前を左折、布袋尊を祀る氷川神社(写真下左)に到着。入口には旧千住新橋の親柱(写真下右)がありました。
「千住新橋は明治44年(1911年)から荒川放水路の大改修計画の一環として大正9年(1920年)より同13年(1924年)までの歳月と当時で119万円を費して完成。その後昭和32年(1957年)に拡幅されました。
橋げたの老朽化・交通量の増化で架け替えとなり、旧大橋の親柱をこの地に移した」と説明板に記載。
社殿左奥に文政7年(1824年)築造された富士塚(写真左)がありました。説明板には「川田浅間神社富士塚と言い、現在地に移築される以前は町の西北(元宿)川田耕地にあり。
明治44年(1911年)荒川放水路開削工事で移築、大正5年(1915年)現在地の西側に、更に水道幹線工事で昭和43年(1968年)に現在地へ。
山頂の奥宮は天保2年(1831年)のもの」と記載。別名 川田富士。

講社は高田(早稲田)の身禄同行の枝講の千住 丸藤十三夜講で埼玉県を含む広範囲の講社。高さは約3m、久しぶりに登れる富士塚でした。
 
宮城の富士塚  宮城氷川神社内  宮城1-38-12  
         最寄駅 JR王子駅からバス利用 

荒川の土手にあるバス停「宮城土手上」で下に降りると、富士の名は付いていませんが宮城氷川神社(写真左)・富士塚(写真右)がありました。高さは約2.5m。富士講の伝承は不詳。荒川は防災対策の堤防嵩上げ工事の真っ盛りでした。この辺りは隅田川が蛇行し、荒川と一番近くで併行して流れています。帰りの王子駅行のバス停は「宮城小学校前」で荒川の土手には登らず、社殿から直進した場所にあります。
社殿の右奥に富士塚が見えます 富士塚の左の社は三峰神社

小右衛門富士 小右衛門稲荷神社内 梅島2-24-3 
        最寄駅 東武伊勢崎線 西新井駅からバス利用

環七通りにあるバス停「梅島二丁目」から住所で探しました。
神社(写真下左)の右に富士塚(写真下右)がありました。
千住 丸藤一心講の枝講。高さ約0.5m。山頂まで行けましたが、崩れていてほとんど平らな状態でした。
区のガイドブックには「神社は小右衛門新田の鎮守。岩付城(現さいたま市)の家臣であった渡辺小右衛門常頓が同僚の高橋伴右衛門を討ち、島根村に蟄居していたところ、ある日、稲荷神の霊夢を見て島根村東方の原野に移り、伴右衛門の子が仇討に来た時に神助を得て返り討ちにし、その原野を開拓したとの伝説が残されている」とあり。

五反野富士 西之宮稲荷神社内 足立3-28-16 
       最寄駅 東武伊勢崎線 五反野駅

綾瀬方面に向かう途中、五反野小学校の前にありました。
社殿の右が富士塚(写真左上下)でした。高さ約3m、中には入れませんでした。この講は丸藤系の講と関わりながら発展。平成12年(2000年)神社の増改築の完成に伴い再築されています。
   

富士塚の奥宮

綾瀬富士  綾瀬稲荷神社内  綾瀬4-9-9 最寄駅 JR綾瀬駅

 
日光街道から一番離れた場所にありました。綾瀬駅近くのビルに囲まれた富士塚で入口の鳥居は架け替え工事中でした。高さ約4m。
「講社は始め山包丸渕講と言い、この地の旧名称 渕江領の頭文字を丸で囲み、丸渕講と言ったとのこと。農民を中心に綾瀬村で結成されていた」と説明板に記載。写真下左が社殿、社殿の左手前に富士塚(写真右)がありました。
次回は「環七通り」より北の地域にある残りの5基の足立区の富士塚を紹介します。
平野 寅次郎 拝