紀行

寅さん歩 その9

東京の富士塚めぐりー8


平野 武宏

足立区内を東西に走る「環七通り」より北側の地域にある残り5基の富士塚を紹介します。最後は埼玉県との境まで行きました。
(高さは伝えられている高さ、最寄り駅は代表例です)

 [足立区]

西新井浅間神社 西新井6-3-16  最寄駅 東武伊勢崎線 西新井駅

西新井富士と呼ぶ人もいるが、浅間神社(写真左)が西新井大師の先の場所で環七通り沿いにありました。写真右は奥宮。高さは約0.5m。


(寄り道)西新井大師

せっかく近くを通りましたので、寄り道です。天長3年(826年)弘法大師が創建の名刹。草だんご屋が並ぶ参道から江戸時代後期に造られた山門(写真左)を入り、本殿(写真右)へ。


山門の先に「塩地蔵」があり、イボ取りの霊感ありとのこと。
堂内の塩をいただき功徳あれば倍の塩をお返し。(倍返しは江戸時代からあり
  

島根富士   島根4-25-1 鷲(わし)神社内  
        最寄駅 東武伊勢崎線 西新井駅からバス利用


日光街道に併行して走る「日光道中」(旧日光街道)沿いのバス停「島根三丁目」で降りる。日本武尊ゆかりの由緒ある神社で正岡子規もこの地を訪れ、詠んだ句碑がありました。社殿(写真左)の左奥に富士塚(写真右)があり高さ約4m。先達であった個人宅の塚が移築されたとのこと。千住大川町の丸藤十三夜同行の枝講らしい。7月1日には神事を行う。
    

宮司さんらしき方(私服)に富士塚のお参りは山頂手前の磐長媛命(いわながひめのみこと)(お姉さんで長寿健康の神)からと教わる(写真下左)、山頂には木花開耶媛(このはなさくやひめ)(美容と芸能の神)(写真下右)が祀られている。高さ約4m。富士講の際に歌われた「島根囃子」と「神代神楽」の記念碑もありました

伊興氷川神社(いこう ひかわじんじゃ) 伊興氷川神社内 東伊興2-12 
            最寄駅 東武伊勢崎線 竹ノ塚駅西口からバス利用

バス停「北寺町」で降り、間違って直進したら「毛長川」があり、渡ると埼玉県草加市。バス停から少し戻り右折すると足立区最古の氷川社(写真下左)に到着。
この周辺は淵が入り組んでいたところから「淵の宮」と呼ばれていたとのこと。都内最北端の富士塚は東伊興町富士と呼ぶ人もいるが、境内の左に浅間神社(写真下右)がありました。高さ約1m。
また付近一帯は古代遺跡で神社前には平成5年(1993年)に開設の伊興遺跡公園がありました。
遺跡公園内に復元された竪穴式住居。右奥に氷川神社の鳥居が見える。
展示館には縄文時代終わり頃の土器や古墳時代初期の出土品が展示。

保木間富士 保木間氷川神社内 西保木間3-28-16 
       最寄駅 東武伊勢崎線 竹ノ塚駅東口からバス利用

花畑団地に行く途中のバス停「西保木間二丁目」で降りて、淵江小学校方面に左折、小学校の裏手に氷川神社(写真下左)がありました。社殿左手の富士塚入口の鳥居には「榛名神社」と記載(写真下右)。榛名神社として祀られているが、富士登山の記念講碑も建てられている。高さ約4m。
  
富士塚 奥宮

神社は明治5年(1872年)に伊興氷川社から分離して保木間村の鎮守となった。
地名の由来は平安末期に西国の武士が木の柵を設け、田畑を起こしたことによると伝えられている。またこの地域でも古墳時代の土師器や鎌倉時代の板碑などが多く出土している。
足尾銅山鉱毒事件で被害問題に取り組んだ田中正造は保木間神社で被害住民と会い、「保木間の誓い」と呼ばれた演説をした場所」と境内の説明板に記載。

 
花又富士(花畑富士) 花畑浅間神社  花畑5-10-1 
            最寄駅 東武伊勢崎線 竹ノ塚駅東口からバス利用

 
終点の花畑団地(はなはた だんち)でバスを降り、団地内を少し戻り、「毛長川」手前に神社がありました。塚全体がご神体で神社になっていました。
富士塚入口  奥宮
高さ約6m。毛長川を渡ると埼玉県八潮市です。ここでも古墳時代の住居跡や土器が出土され、集落だったことを示しています。前述の遺跡のあった東伊興とは日光街道を挟んで正反対の場所で毛長川沿いにあり、いずれも足立区最北端の富士塚です。足立区最後の富士塚は登頂することができました。

      
これにて足立区の富士塚の紹介は終わりです。広い区内の移動にはバスのお世話になりました。古希を迎え東京都から頂いた「シルバーパス」が大活躍しました。
いよいよ次回最終章は23区内一番多く16基の富士塚が残っている江戸川区です。

平野 寅次郎 拝