紀行
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「日本橋川から神田川」
2014年1月1日 池内淑皓 |
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2013年11月28日(木)阪急交通社主催の日本橋川から神田川に入って隅田川を通り、日本橋に戻ってくるクルージングが催行されたので参加した。 小型の船を一艘借り切って、川から橋を見るガイド付きの遊覧である、通常は陸上からしか見えなかった橋が違った角度から観察できる楽しさがあった、写真で紹介して見よう。 |
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「クルージングの地図」 舟会社 株式会社ジール社の資料から(www.zwal.ne.jp) | |
「江戸城古絵図」 日本橋、一石橋、常盤橋、神田橋、一ツ橋が見える | |
「日本橋渡船場」 日本橋の袂にある、通常は施錠されイベントまたは緊急時に扉が開いて乗船できる。 日本橋川はJR水道橋先で神田川から分かれて永代橋付近で隅田川に注ぐ一級河川、15〜17世紀にかけて水利工事が行われた。この川は水利の便が良かったので経済、水運、文化の中心として栄えた、現在も小網町、小舟町、掘留町などの地名が残る。 |
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「日本橋」古くは武蔵の国豊島郡で、その中に江戸郷前島村と呼ばれる地域があった、鎌倉時代には江戸氏の支配から太田道灌の支配に変わり、後北条を経て徳川家康がこの地を支配した。 |
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慶長八年(1603)この時日本橋を初めて架けらる、この地は江戸の中央にして諸方への行程もこの所より定めしむ。慶長九年二月四日触令、諸国街道一理毎に塚を築かしめられる、東海道、中山道は永井 弥右衛門、本田光重、大久保石見守長安を惣督し五月に到って成功す。 擬宝珠高欄、橋の長さ28間、京師三条より当橋まで124里半15丁、駅宿53次これを東海道といふ。[徳川実紀] |
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また万治元年(1658)には以下の説明がある。「南北に架す、長さおよそ28間、南の橋詰め西の方に高札を建てらる、欄干擬宝珠の銘に万治元年戌戌9月造立と銑す」とある。この擬宝珠は現在でも高札場先黒江漆器店に陳列されてあるので是非見てほしい。 明治に到るまで10回程架け替えられた、現在の橋は明治44年4月石造り二連アーチ橋長さ49m、幅27m設計は米元晋一、橋中央の麒麟装飾(写真では左端)は飛躍する日本を表している、平成11年国の重要文化財に指定。 クルージングは日本橋を潜り上流の神田川に向けて進む。 |
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高札場より見た朝の日本橋(今) | 高札場より見た朝の日本橋(昔) 安藤広重 |
一石橋 | 江戸切絵図(嘉永三年) 日本橋、一石橋、常盤橋 |
「一石橋」名の由来はこの地に居住した幕府金座御用の後藤庄三郎、と南橋詰めの御用呉服商後藤縫助が橋を修繕していることから、後藤、後藤=五斗、五斗で一石橋と名付けられた、神田地区日本橋地区を結ぶ重要な橋であった。別名は「八つ見橋」でここから江戸の橋が八つ見えたから名付けれていた。 日本橋川に架かる橋では最も低い。現在の橋は平成13年完成 二連鋼鉄製桁橋 長さ61m、幅27m 高速道路の橋脚がやたらめったら川の中に林立して全くの風情が無い、高度成長時代の名残である。 |
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「常盤橋」名の由来は徳川=松平、松と常緑(常盤)をかけて同氏の繁栄が続くことを願って名付けた。 もとは「大橋」と呼ばれ江戸城大手門から直接浅草に向かう本町通りの上に架けられた、別名「浅草口橋」寛永六年(1629)橋の前に常盤橋御門出来たので「常盤橋」となった 現在の橋の石は当時の御門の石で造られた。先の東日本大震災で石垣が緩んだので修理中である。 人道専用 長さ32m 幅23m 石造り二連アーチ橋 |
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「新常盤橋」常盤橋の10mそばに造られた新しい橋、昭和63年完成 長さ39m、幅27m 鋼鉄製桁橋、単なる通行のみに供せられる平凡な橋。 |
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「鎌倉橋」名の由来は江戸城改修に際し、鎌倉から石をこのあたりで陸揚げした場所から、鎌倉河岸と呼ばれそこから橋の名がついた。有楽町駅前から神田淡路町に向かう通りに架かる、昭和4年関東大震災後の復興事業の一環として架けられた。 長さ30m 幅22m コンクリート橋 | |
「神田橋」名前の由来は江戸幕府が出来る前からこのあたりを「神田」と呼んでいたから橋の由来となっている。江戸時代には「神田橋御門」の見付け橋であったという、この御門は将軍が上野寛永寺に参拝するための御成道でもあったので重要視された。元この地は神田明神社の土地であったが、湯島に移転させ土井利勝の屋敷地となった。現在の橋は昭和55年架橋 長さ37m 幅33m 3スパン鋼鉄製桁橋 | |
「錦橋」名前の由来は、江戸時代この地に一色と名乗る武家屋敷が二軒あったので、一色、一色=二色=錦と名前が付いたらしい、両岸が錦河岸となり橋の名となったらしい?江戸時代にはこの一帯が火除け地として指定され、護持が原と言う寂しい土地だった、右岸は一ツ橋家の屋敷。 現在の橋は昭和二年震災復興橋として架けられた。 長さ33m 三連アーチ式鉄筋コンクリート造り スマートで優美な感じがする。 |
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「一ツ橋」名の由来は、ここが日本橋川と小石川の合流地点を表す「ひとつ」が名の由来らしいが、他に家康が入府以前、丸太が一本渡してあるだけの橋であったから一ツ橋の由来という説もある。 ここには一ツ橋御門があった。八代将軍徳川吉宗の子「宗尹(むねただ)」がここに屋敷を構えた、一ツ橋御門に因んで名を取った御三卿の一人。神田橋からこのあたりの護岸は江戸城の石垣が残る(高速道路工事で石垣を組みなおした) 大名の刻印が多く残っている。現在の橋は大正14年架橋 長さ20m 幅28mコンクリート製 橋の長さより道幅の方が大きい人通りの激しい主要道路となっている。 |
一ツ橋御門 (江戸城古絵図(嘉永年間)) |
「雉橋」名前の由来は、江戸時代唐人(中国人)の勅使接待のためにこの橋のそばに鳥屋を作り、雉を飼う雉小屋を作った辺に橋があったのでその名がついた。慶長の時にはすでに架橋されていた、皇居内堀に最も近い所に位置していて内曲輪門があった。現在の橋は震災復興橋の一つで 長さ34m 幅27m 鋼鉄製アーチ橋で大正14年製。 |
「宝田橋」 名の起こりは、江戸開城以前からこのあたり下平川宝田村であったから名が付けられた、江戸城の拡張で宝田村の住人は日本橋大伝馬町に移転する、村の鎮守「宝田恵比寿神社」は、「べったら市」で今でも有名。 現在の橋は 昭和43年に架け替えられた 長さ27m 幅8m 鋼鉄製の桁橋 高速道路が上から覆いかぶさって何とも冴えない橋となってしまった。 |
「俎橋(まないたはし)」 名の由来は、もとは寂しい地に粗末な俎のような板二枚を渡しただけのものであったという、江戸初期の架橋であるが、このあたりは寛文年間(1664)俎河岸が存在し、物資の集積場でもあった、現在の橋は昭和58年に架け替えられた 長さ58m 幅31m 鋼鉄製の桁橋 交通量が最も多い橋。川から見ると俎のようにも見える。 |
「南堀留橋」 俎橋の上流100mの所に架かる、江戸時代にはこの橋はない、運河はこの先堀留で終わっていた、昭和3年8月初めて架橋された新しい橋、鋼鉄二連アーチ橋 長さ26m 幅12m 高速道路のインターチェンジが上から覆いかぶさり空が見えない暗い橋。 |
「江戸城古絵図」 堀留橋と日本橋川が切れているのが分かる(点線が掘削した場所) |
「新川橋」 橋の名の起こりは、明治36年掘留め橋から三崎橋にかけて新たに水路を掘削したので造られた橋、現在の橋は昭和2年架橋、長さ27m 幅28m コンクリート橋。 |
「あいあい橋」 JR飯田橋貨物駅跡地の再開発で新たに架けられた人道橋、隣の町同士がわきあいあいとお付き合いできる意味を込めて昭和30年代に架けられた。 |
「三崎橋」 名の起こりは、江戸時代このあたりは沼地や湿地帯で、三崎とは沼地の中に岬状の陸地が形成されたのが由来。このあたりは海からの入り江が、遠浅の海であった日比谷入り江の岬であったらしい。 神田川が日本橋川と分岐する所に架かる、江戸時代には武家屋敷を造るために堀は埋め立てられて橋は存在しない。明治36年になって再び掘削して運河となり橋が架けられた。 現在の橋は昭和36年製で長さ27m 幅8m 鋼鉄製の桁橋。目の前にJR総武線が走る。 |
日本橋川の項 [完]。(その2)は神田川に続く |