紀行

 南九州を歩く

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 平成26年2月7日    池 内 淑 皓

2014年1月25日(土)、26日(日)鹿児島指宿で「第22回いぶすき菜の花マーチ」ウオーキングが開催されたので、この行事に便乗して薩摩半島南部を歩いた。
 効率良く歩くために 「さんぽみち総合研究所 e-旅専科」の募集するツアーに参加する。
 1月24日(金)羽田を9:40発のANA621便で飛べば、鹿児島空港には昼前に到着する、ツアー専用バスで太平洋戦争時特攻基地のあった知覧に向かう。知覧の薩摩藩武家屋敷等周辺を散策して、日が西に傾く頃東シナ海に面した番所鼻自然公園で夕暮れの開聞岳を見て、宿舎である指宿フェニックスホテルに向かった。
  以下写真を眺めながら歩いて見よう。

「薩摩藩武家屋敷の案内図」  江戸時代?薩摩藩では居城鶴丸城を主として、周囲に113の外城を作り、鶴丸城の防衛を強化していた。
その一つがここ知覧の武家屋敷である、今から約230年前の18代知覧領主島津久峯が構築した、城はないが10余の武家屋敷が重要伝統的構造物群に指定されている。
通りに面した武家屋敷遺構
ある屋敷では、家宝の武具、文書類が縁側に陳列されている。
「知覧特攻平和会館」  太平洋戦争の沖縄戦で、人類史上類のない爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たりして、散華(さんげ)する悲惨な人間爆弾である。ここには無念の気持で飛び立った陸軍特別攻撃隊員の遺影、遺品、記録等貴重な資料を収集・保存・展示して当時の真情を後世に正しく伝える目的で設立されたという。 特攻戦死した若者は1,036名に達する(パンフレットから一部転載)
   
「撃墜され、半身となった ゼロ戦」  鹿児島川内市甑島沖500mに沈んだのを引き上げた
「三角兵舎の特攻隊員宿泊所」  出撃までここで過ごし遺品の整理や、遺書を書いたという、出撃の前夜は枕で顔を隠して泣きぬれたと言う。
「遺影と遺書」  遺品4500点、遺影1036柱が公開されている、どこまでが本音で、どこまでが作文か私は分からない、二十歳そこそこの少年が無理矢理戦場に散ったのである、彼らは沖縄に着く前にほとんど撃墜されて、成果は無いに等しかったといわれている。
    なんともやりきれない暗い気持で会館を後にした。
「番所鼻自然公園」 東シナ海に面しており、薩摩藩の警備・見張り所である番所がここに置かれたことから呼ばれている。         
 伊能忠敬は日本地図作成の途次ここに立ち寄り絶賛した場所。夕暮れの開聞岳(924m)が特に美しい。 (伊能忠敬先生の碑あり)     
番所鼻自然公園にて
この項完