紀行

赤穂義士吉良邸から泉岳寺への道を歩く (1)


平成26年3月2日    池 内 淑 皓

ご存じ『「忠臣蔵』で知られた赤穂義士四十七名、吉良邸討ち入りの後、高輪泉岳寺までの道筋を歩いて見よう。

 頃は元禄十五年(1702)十二月十四日、深々と降り続く雪の夜半、山鹿流の陣太鼓が本所に鳴り響く、大石内蔵助以下四十七名、対する吉良邸には士分の侍七十九名がいたが用心棒は居なかった、斬り合いは十五日未明まで続く、やっと吉良上野介義央の首級を上げ、夜明けの大川端(隅田川)を浅野内匠頭の菩提寺泉岳寺に向かう。

 江戸城殿中松の大廊下から写真を見ながら歩いて見よう。


江戸城本丸付近の地図」(御苑の案内板から) 天守台が右上に見える、明暦の大火で焼失してから再建はなかった、地図で本丸の右側は大奥。 左下の大番所が殿中への入口で、「松の大廊下」が見える。


松の大廊下跡」 本丸御殿の大広間から将軍に拝謁する白書院に到る長さ50m、幅4mの畳敷きの薄暗い畳敷きの廊下


 「松の大廊下の碑(左)と松の大廊下の腰板(右)」 この畳敷きの廊下の腰板に松の絵が描かれていたので名付けられた、大廊下は昼でも薄暗い。
三月十四日未の刻(午後二時頃)短慮な浅野内匠頭守は高家筆頭の吉良上野介に切りかかる、理由の如何を問わず殿中で刀を抜いたらお家は断絶、その身は切腹。徳川300年の間、城内で刀を抜いた事件は三件ある。

        

平川門」 別名不浄門と言う、城内で罪人、死者が出るとこの門から出された、浅野内匠頭守は駕籠に青紐を掛けられ一関藩田村右京太夫の上屋敷に送られた。
生きてこの門を出たのは、ほかに絵島生島事件の絵島の二人だけである(絵島は信州高遠に永のお預け)。

 「浅野内匠頭守切腹の地」(現在の第一京浜国道(R15)東海道、新橋4-2)左手の赤いビルの一角が田村邸跡、彼は当時「奏者番」(礼式を管理する役で、大目付、目付に並ぶ重要な役職)であったから身柄を預けられた、五代将軍徳川綱吉は激高し即日切腹を言い渡す、御側用人は柳沢吉保、吉保は早く幕引きをしようと即日切腹を実行させた。
 江戸時代を通じて城持ち大名が即日切腹は例がなかった、彼はそれを断行したのである、それ故に幕閣達も、江戸町民も裁きは不公平と映り、仇討容認論へと発展してゆく。もし、御側用人が柳沢吉保でなかたら即日切腹はなかったと言われている。

  

 「浅野内匠頭守長矩終焉の碑」 酉の刻(午後六時頃)田村右京太夫は永の御預けになると思い、座敷牢まで準備したが、その日の内に切腹と決まり磯田武太夫の介錯で首が離れた。
辞世の句は 『風さそふ 花よりもなほ我はまた 春の名残をいかにとやせん』
浅野家の家臣たちにより菩提寺の泉岳寺に葬られた。

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本所松坂町の吉良邸を紹介しよう。


江戸切絵図 本所」(嘉永五年(1852)の地図)。緑と茶のお寺は「回向院」、吉良邸は松阪丁と記述されている。吉良邸は刃傷のあと改易となり、領地も召し上げられ地図上に名が無い、隣の「土屋土佐守邸」は嘉永でも地図に記述されている。


吉良邸から義士達が歩いた道」(国土地理院地形図1:25,000) 吉良邸はJR両国駅から歩いて5分の回向院の南東にある(両国3-13-9)

 

吉良邸裏口」 中央の電信柱の所に案内板がある

 

吉良邸跡」 (都指定史跡、本所松坂町公園、両国3-13-9))
吉良上野介義央(よしなか)、高家筆頭、高家とは、幕府と朝廷との間の種々儀式を取り仕切る最高位の職務で、複雑な職務に熟達している必要がある。当日は朝廷の使者に対する饗応(接待)の支度であった。
屋敷は当初江戸城に近い呉服橋の中にあった(現在の呉服橋交差点内側)、この橋は大奥に出入りする呉服商人達が主として通った。
刃傷の後、幕府も討ち入りがあるとの予測と、江戸城の目の前での切り合いはよろしくないとの事で、元禄十四年八月隅田川を越えた下総の本所に移させた。と云う事は、幕府側も「仇討を止むなし」、と黙認する方向に傾いていった。
吉良邸屋敷の広さ2550坪、(東西132m、南北62m)で、母屋388坪,長屋426坪の規模であった。


続く