紀行

健康ご利益めぐり-7 江東区−2


平野 武宏

江東区残りの健康ご利益を錦糸町駅からスタートします。古社が多く、ユニークなご利益をお持ちの神様・仏様が多くいらっしゃいました。
歩き終わってみると事前調査にはなかった新しいご利益が見つかり、江東区が目黒区を抜いて2番目にご利益が多い区となりました。   
最寄駅は代表例です。寄り道などの価格は訪問時のものです。

[江東区-2]

 [諸病平癒]亀戸天神社 撫で牛 亀戸3-6-1 
                  最寄駅 JR 錦糸町駅北口


蔵前橋通りを亀戸駅方面に歩きます。
菅原道真(敬称 菅公)を祀る神社です。
正保3年(1646年)大宰府天満宮の神職が飛梅の木で道真公の像を彫り、社殿建立の地を求め、全国を旅し、亀戸村に古くからある天満宮に尊像を祀ったのが始まりとのこと。
寛文2年(1662年)四代将軍家綱から社地を得られ、現在地に移転。

梅の名所、境内の梅はまだちらほら咲きで、社殿に大宰府の梅が飾ってありました。
菅公の遺骸を乗せた牛車は今の大宰府天満宮の辺りで止まり、臥したまま動かなくなり、官公のお思い召しとそこを墓所としたそうです。

そのため、天神様の牛はすべて臥姿となっているそうです。

文政8年(1825年)頃、亀戸天神社に奉納された石の牛は体の悪い場所を撫でれば治ると信仰され、牛はピカピカに輝いていました。ちなみに菅公は丑年生まれだそうです。

[病気平癒]亀戸天神社 御嶽神社 おいぬさま


社殿右にある御嶽神社の左脇の神楽殿の裏に塩まみれの祠がありました。中には塩で顔が見えない石像があります。
病気平癒や商売繁盛を祈る人達が今も絶えず、願かけ時に塩を供えるという習わしがあり、ご神体は塩漬け状態となっています。

[咳]石井神社 おしゃもじ稲荷 亀戸4-37-13 最寄駅 JR亀戸駅


蔵前橋通りから住所を頼りに探しました。
神社の由来が書かれた説明板によると「弘仁2年弘法大師により発現せられた古社で「しゃもじ稲荷」と呼ばれ咳きの病を治す神として信仰されてきた。神社から「おしゃもじ」を借りて自宅で拝み、病が治ればお礼に神社から借りて来た「しゃもじ」に新しい「しゃもじ」をつけて神社に返す習いがあったそうだ。
当社は石棒を神体とし、石神(しゃくじん)が「しゃくし」となり「しゃもじ」を奉納することになったようだ。
また「石神」を「せきしん」と呼ぶこともあって「咳きの神様」にもなった」と記載。
例祭日には町内住民から献じられた薩摩芋を配る「おしゃもじ様の芋祭」と称されたとのことです。

[足・病気平癒]亀戸香取神社  亀戸3-57-22 最寄駅 JR亀戸駅


亀戸駅から蔵前橋通りの亀戸四丁目交差点を直進すると左側にあります。
天智天皇4年(665年)中臣鎌足が東国下向の際に勧請したと伝わる古社。平将門の乱の時には追討使 藤原秀郷が戦勝を祈願。
後日、勝利を感謝し弓矢を奉納これを「勝矢」と命名しました。
近年では武芸だけでなく「スポーツの神」としても信仰され、健脚や美脚の効験もありとされています。又、小さな勝矢が同封された「勝守」が人気となっています。
スポーツ・病・自分に勝つ」の神社スローガンが気に入った寅次郎です。

境内に「亀戸大根之碑」がありました。
これは足とは無関係です。
説明板には「文久年間(1861〜64)の頃から大根づくりが始まり、この辺りが栽培の中心地。根が短く先がクサビ状にとがっているのが特徴。
宅地化が進み大正時代の終わりから栽培は江戸川区小岩や葛飾区高砂に移って行きました」と記載。

[病気平癒]亀戸香取神社 水かけ恵比寿神・大国神

亀戸七福神の恵比寿神・大国神で、社殿手前にはこんな看板と神様がおりました。自分の悪い所を洗い清め、健康祈願とのこと。


[無病息災・厄病平癒]天祖神社  亀戸3-38-35 最寄駅 JR亀戸駅


亀戸天神社の裏側に位置する柳島の総鎮守とのこと。
説明板には「推古天皇の冶世(593〜628年)の創建。
天正年間(1573〜91年)に疫病が流行し、この時に織田信長の命を受けた使者が参向して流鏑馬を献じたところ疫病は冶まったと言われています。
今日でも子供の健やかな成長を祈って毎年9月16日子供試射が行われています。亀戸七福神の福禄寿と親しまれています」と記載。

[疝病(下腹病)]仙気稲荷神社 南砂3-4 最寄駅 東西線 南砂町駅

明治通り南砂三丁目の都営南砂三丁目アパートの脇にあります。
説明板によると「この付近には以前、砂村稲荷神社があり文化・文政(1804〜29年)の頃から疝気の病(おもに下腹痛)霊験のある村の疝気稲荷として栄えました。昭和42年(1967年)千葉県習志野市に移転したため、当地には祠が建てられました」と記載。
[疫病平癒]志演尊空神社 北砂2-1 最寄駅 浅草線 西大島駅
 

明治通りと清洲橋通りの境川交差点角にあります。
説明文は木板に書かれ字がかすれて読みにくいが次のように読み取りました。
 
 
「寛永元年から深川稲荷と呼ばれた古社。元禄年間に将軍徳川綱吉が鷹狩で参拝「民の志を演ぶること殊勝なり」と称し、社名を志演神社と改名。
正徳2年(1712年)当地に疫病が流行し死者が多数に及んだ時、疾病退散の護摩で祈願。病は止まったと古書に記載あり。その後、尊空稲荷を合祀して、志演尊空稲荷と改名」と記載。
毎年5月に大護摩会を行うようになり、「降魔稲荷」とも呼ばれました。

[イボ取り]宝塔寺 塩なめ地蔵(イボ取り地蔵) 大島8-38 
                        最寄駅 浅草線 東大島駅大島口

東大島駅ホームは旧中川の上にあるので出口を間違えると隣の橋まで大回りです。第五大島小学校を右折、小名木川方面に左折するとあります。
慶長15年(1610年)開創の真言宗智山派のお寺で境内にあるお地蔵さまは小名木川から掘り出され、ここに納められたと伝えられます。供えられた塩をつけるとイボが取れると「イボ取り地蔵」とも呼ばれます。前の山積みは袋入りの塩(写真下右)又商売繁盛や航海安全のご利益もありと伝えられています。地名の大島は「おおじま」と読むと学びました。


[こぼれ話]学問の神様 菅原道真(敬称 菅公)

優れた才能を持ち、学問の道に優れ33歳にして文章道の最高位に上り詰め、天皇の絶大な信頼を得、政治の面でも、とんとん拍子で出世、藤原氏と肩を並べる右大臣に昇進。
しかし藤原氏の讒言で逆賊の汚名、無実の罪で九州太宰府へ流されました
失意のうちに延喜3年(903年)59歳でしました。
間もなく京では災害・厄病が相次ぎ、左遷の張本人藤原時平も不慮の死。菅公のたたりと噂されたそうです。流言を朝廷も捨ててはおけず左遷を破棄し、北野天満宮、太宰府天満宮を創建。その後全国各地に天満宮・天神社が創建されました。
太宰府天満宮を模して創建された亀戸天神社は藤と梅の名所、そして受験生の神様です。
そういえば「カンコー」と言う名の学生服の会社もあります。背景には東京スカイツリーも出来ました。
文道の祖とあがめる信仰は平安時代中頃のようですが「学問の神、書道の神」として庶民の間に広め定着したのは江戸時代の寺子屋だったそうです。

[寄り道]元祖 くず餅 船橋屋  亀戸3-2-14 最寄駅 JR亀戸駅

亀戸天神社に来ると必ず立寄る、寅次郎の大好物の店です。
文化2年(1805年)初代の出身地の店名で創業。製造工程は約450日で消費期限は2日間。お店で出来たての元祖くず餅(530円)をいただきました。
お土産用もあります。消費期限2日間は寅次郎夫妻には心配ご無用!すぐ食べ終わりますので。

次回は新宿区のご利益めぐりです。

平野 寅次郎 拝