紀行

赤穂義士吉良邸から泉岳寺への道を歩く (2)


平成26年3月5日    池 内 淑 皓

 ご存じ『「忠臣蔵』で知られた赤穂義士四十七名、吉良邸討入りの後、高輪泉岳寺までの道を歩いて見よう。
 頃は元禄十五年(1702)十二月十四日、しんしんと降りしきる雪の夜半、山鹿流の陣太鼓が本所松坂町に鳴り響く、大石内蔵助以下四十七名、対する吉良邸には士分の侍が79名いたが、用心棒はいなかった。斬り合いは十五日明け方まで続く、夜明け近くになってやっと吉良上野介義央の首級を上げる。
 四十七士は隊列を組んで、夜明けの大川端(隅田川)を、浅野内匠頭長矩の菩提寺である泉岳寺に向かう。討ち入り後四十七士が泉岳寺までたどった足取りを写真で歩いて見よう、(2)は吉良邸から永代橋まで歩きます。


「吉良邸から永代橋までの地図」(国土地理院発行地形図1:25,000)

 討入りに際し、大石内蔵助良雄は隣家の土屋主税達直(3千石の旗本)邸に、討入る旨を伝えるが土屋主税は幕府、上杉邸に報告しなかった、義士達を好意的に扱ったという。
吉良側の死者は16名、負傷者は23名で、義士側は死者ゼロ、負傷者2名であった。
元禄十五年(1702)十二月十五日明け方、本懐を遂げた四十七士は高輪泉岳寺に向かうが、寺坂吉衛門は途中隊列から外れ、泉岳寺に向わなかった。
大石内蔵助は泉岳寺への途中、吉良勢か上杉勢が主君の首を取り戻しに来る可能性を考慮して、生き証人として彼を逐電(逃亡)させた。
 さて、上杉家上屋敷(現霞が関1-1)では討入りの1時間後に事態を知ったが、「騒ぎを大きくした」と幕府から咎められるのを警戒して、援軍を出さなかった。
 吉良邸を出た四十七士は、当初回向院に集結する予定であったが、寺は立ち寄りを断る、仕方なく吉良邸裏口で隊列を整え両国橋に向かうが、当日幕府では総登城の日であったため、無用なトラブルを避けるため、方向を変えて一之橋から隅田川沿いに永代橋へ向かうこととなった。

      

「一之橋」 吉良邸裏門を出た一行は、馬車通りを歩き一之橋北詰めから橋を渡り、一之橋通りを南下する。今この川には高速道路が走り、何とも風情のない橋となってしまった。

      

「一之橋通り」 新大橋二丁目辺りの川沿いは御船蔵があり、御用船の係留場所でもあった。
 道は新大橋信号を直進する、新大橋の袂には御船蔵の碑がある、(右側の倉庫の裏は隅田川)  


「芭蕉記念館」 新大橋の信号を過ぎると芭蕉記念館の看板が見えてくる。


「正木神社」 芭蕉記念館を過ぎて萬年橋北の信号を右折し、川沿いに正木神社に向かう。
 このお宮、明和六年以前からあり柾の下に正一位稲荷大明神が安置されていた、寛政中頃より腫物に効果ありと願をかける人で賑わった、義士一行もこの前を通過している。


 「芭蕉翁の銅像」(芭蕉庵史跡展望庭園) 江戸時代の萬年橋は正木神社前から橋が架かっていた。ここに現在は芭蕉記念館の分館として芭蕉翁の銅像がある公園となっている。
松尾芭蕉は元禄二年(1689)三月二十七日(陽暦5月16日)ここ深川の芭蕉庵を引き払い、「奥の細道」の旅に出る。
『月日は百代の過客にして行きかう年も又旅人也。船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老を迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。・・・・・・・・』 私は2003年4月ここを出発して芭蕉の足跡を訪ねながら、2014年10月岐阜大垣の「奥の細結びの地」に到着した。ついでに遷宮なった伊勢神宮にもお参りして、11年の旅を終えたところ。


道は迂回して小名木川を鋼鉄製の「萬年橋」で渡る
江戸時代の萬年橋(葛飾北斎)

小名木川は隅田川から下総の行徳に抜ける人口の運河で、行徳の塩や食料品を江戸市中に運ぶために開削された。行徳川とも呼ばれている、橋詰めには船番所が置かれていた。
 義士一行は清洲橋東詰めを通り、萬年橋を渡り永代橋方面へと向かう。沿道には凱旋の義士達を一目見ようとたくさんの人垣ができてきた。


「義士休息の碑」(佐賀町1-6-2) ESCOと書いてあるビルの前で「ちくま味噌」初代竹口作兵衛が義士達を招き入れて甘酒粥を振るまって労をねぎらった、今もビルの反対側で甘酒を売っている。


 雪晴れの中、義士達は「永代橋」を渡って浅野邸に向かう。

 永代橋は、元禄11年(1698)五代将軍徳川綱吉の50歳祝いに幕府が架けた。徳川家が末永く続くように祈念して名付けられた(他にも由来がある)隅田川では4番目に架けられた橋で、当初は100m上流にあった。
 文化4年(1807)富岡八幡宮の祭礼で詰めかけた群衆で橋が落ち、1400人が死亡した、史上最悪の橋の事故と言われている。現在の橋は 全長185m 幅25m 3スパン鋼鉄製タイドアーチ橋でドイツライン川に架かっていたルーデンドルプ鉄道がモデルで、現存最古の橋。 国指定重要文化財
続く